日帝強占期のアナーキスト・朴烈の人生を描いた映画『朴烈』(原題)。朴烈の恋人であり、政治的な同志である金子文子(右)が主人公に匹敵するほどの関心を集めている。新人のチェ・ヒソが演じた。(写真提供=メガボックス・プラスエム)
朴烈と金子は東京で出会って同居し、アナーキストとして日本帝国主義と天皇制に反逆する集まり「不逞社」を組織した。朴烈が天皇家への爆弾投擲容疑で逮捕された時、金子も一緒に捕まった。金子は裁判中、7回にわたって転向を要求されているが、最後まで朴烈と志を一つにして死刑の宣告を受けた。なぜ日本人が命がけで朝鮮のために自国の体制を否定したのだろうか。映画が説明しなかった裏話を、日本の歴史学者・山田昭次氏が著した『金子文子』(邦題『金子文子 自己・天皇制国家・朝鮮人』)(出版社/サンチョロム)から探してみたい。
「植民地朝鮮を愛した日本帝国のアナーキスト」という副題がついたこの本は、イ・ジュンイク監督が映画を作る時に参考にした本でもある。山田昭次氏は金子が獄中で残した膨大な量の自叙伝と裁判記録、当時の新聞、雑誌などを収拾して金子の人生を再構成した。
金子は、天皇制を信奉する権威主義的な父と下層階級の母の間に生まれた。父は母を戸籍に入れず、金子が生まれた後は母を捨てて母の妹と結婚した。金子は自然に戸籍のない無籍者になった。差別と虐待の歳月を送った金子は母にも捨てられて9歳の時に祖母がいる朝鮮へ向かった。
7年間の朝鮮体験は地獄と同じだった。朝鮮人を収奪して富を築いた祖母は大いなる権威主義者として金子を蔑視した。手を上げたり食事を取らせなかったりしたが、近所の朝鮮人女性がこれをかわいそうに思って食べるものを与えようとしていたときもあった。金子は被支配階級である朝鮮人のほうに同情心が芽生えたと同著は伝えている。何より、1919年の三一運動をその目で見て、その抵抗精神に魅了された。日本に帰ってきても金子の受難は続いた。金のために母方の叔父の元に嫁がせようとする父に失望し、誰よりも明晰だったが、女性という理由で教育を受けることができない現実に憤慨した。
抗日運動家・朴烈の同志・金子「生きるとは自分の意志で動くという事」(2)
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