国立大田(テジョン)顕忠院の権律政(クォン・ユルジョン)院長は一日に3、4回ずつ戦死者の墓地にいく。韓国哨戒艦「天安」46勇士墓地内のムン・ヨンウク中士(当時23歳)の墓碑でしばらく立ち止まったりする。女手一つで育ててくれた母を亡くし、頑張って生きていこうと海軍副士官の道を選択したムン中士は、入隊1年後の2010年3月26日、北朝鮮の「天安」爆沈で死亡した。
「私の息子だと思ってあいさつする。ここに眠っている犠牲者のおかげで私たちが平和に暮らしている。政治家などここを訪れるすべての方々にもう一度この人たちのことを考えてほしいと伝えている」。
15年前の昨日、西海(ソヘ、黄海)北方限界線(NLL)で北朝鮮の奇襲攻撃を受けてユン・ヨンハ少佐ら6人が戦死した。彼らがチャムスリ号で亡くなった日、私たちはワールドカップ(W杯)の3位決定戦で盛り上がっていた。1999年6月15日の最初の延坪(ヨンピョン)海戦に続く第2延坪海戦だ。67年+5日前(1950年6月25日)未明、北朝鮮は38度線を越えた。
第2延坪海戦15周忌に戦死者の家族が涙を流す時、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は韓米首脳会談のための最初の訪米日程として、バージニア州クァンティコの長津湖(チャンジンホ)戦闘記念碑に献花した。参戦者の前で「長津湖の勇士たちがいなければ、興南(フンナム)撤収作戦の成功がなければ、今日の私もいなかったはず」とし、彼らの犠牲に感謝の意を表した。新政権の発足後、高高度防衛ミサイル(THAAD)配備および対北朝鮮政策をめぐる葛藤が深まっている状況で見せた文大統領の「長津湖外交」だ。
1950年11月27日に始まった長津湖の戦いは「今世紀の地域戦争のうち最も過酷な戦争」(サミュエル・マーシャル)という韓国戦争(朝鮮戦争)の中でも最も激しかった。長津湖の北側に進出して中国共産軍7個師団に包囲された米海兵第1師団は、氷点下40度で2週間にわたり凄まじく戦った。約5000人が死傷した。長津湖の戦いのおかげでメロディスビクトリー号は避難民1万4000人を乗せて興南(フンナム)埠頭を離れることができた。この船に文大統領の祖先が乗っていた。
ところが与党・共に民主党の秋美愛(チュ・ミエ)代表が文大統領の訪米2日前に戦争に言及した。「THAADの政治的意味合いが大きくなり、それが米中葛藤として表出し、南北の誤解があるとすれば、被害は戦争につながるしかない」「戦争は突発的で予告も兆候もない。決定権者が戦争だと宣言する瞬間に起こる」と述べた。波紋が広がると「外交の重要性を強調したものだった」と釈明した。とにかく、韓国戦争の勃発要因を現時点で確認する契機を用意したという点で、秋代表の発言は意味があると考える。
3週以内に韓国全域を占領するという金日成(キム・イルソン)主席の計画に火をつけたのは、1950年1月12日のディーン・アチソン米国務長官の「アチソンライン」(米国のアジア防御線から韓国除外)発言だったことは誰もが知っている。第2次世界大戦後、米国との緊張の中、アジアでの飛躍の踏み台を探していたスターリンも、米軍が支援しないという意味と受け止めて金日成主席の南侵計画を承認した。
67年が過ぎた今、中国がこの地域(さらに国際社会)の主導権ないし覇権追求のために韓米同盟の亀裂を追求するということも、THAAD圧力がその一環であることも常識だ。韓米軍事同盟の弛緩は、言い換えれば第2のアチソンラインを引くことかもしれない。
もちろん韓米同盟は簡単には崩れないだろう。問題は北朝鮮の核・ミサイル(ICBM)武器体系が完成した後の韓半島(朝鮮半島)安保地形でどうするかだ。北朝鮮がソウルを攻撃する場合、米本土が北核攻撃の射程距離にあれば米国は韓国支援に乗り出しにくい。米国の北核対応拡張抑止力の提供も無意味になり、韓半島から手を引けという米国民の要求も強まる可能性がある。グレアム・アリソン米ハーバード大ベルファーセンター所長、ヒュー・ホワイト豪州国立大教授などの専門家は「金正恩(キム・ジョンウン)労働党委員長は決して核ミサイル開発をあきらめない」と診断する。韓国政府が中国のTHAAD圧力に振り回される状況を、外部は韓米同盟が支えてきたこの地域で力の均衡に亀裂が生じる兆候とみている。
こうした状況の仮定があまりにも極端だとか、北朝鮮はソウルに向けて決して核を使用しないとか、北朝鮮は決して韓国を攻撃しないという前提で見るのなら、「安保」という言葉は使ってはならない。安保はたとえ1%でも「仮定」から出発する。
キム・スジョン/ライティングエディター外交安保記者
「私の息子だと思ってあいさつする。ここに眠っている犠牲者のおかげで私たちが平和に暮らしている。政治家などここを訪れるすべての方々にもう一度この人たちのことを考えてほしいと伝えている」。
15年前の昨日、西海(ソヘ、黄海)北方限界線(NLL)で北朝鮮の奇襲攻撃を受けてユン・ヨンハ少佐ら6人が戦死した。彼らがチャムスリ号で亡くなった日、私たちはワールドカップ(W杯)の3位決定戦で盛り上がっていた。1999年6月15日の最初の延坪(ヨンピョン)海戦に続く第2延坪海戦だ。67年+5日前(1950年6月25日)未明、北朝鮮は38度線を越えた。
第2延坪海戦15周忌に戦死者の家族が涙を流す時、文在寅(ムン・ジェイン)大統領は韓米首脳会談のための最初の訪米日程として、バージニア州クァンティコの長津湖(チャンジンホ)戦闘記念碑に献花した。参戦者の前で「長津湖の勇士たちがいなければ、興南(フンナム)撤収作戦の成功がなければ、今日の私もいなかったはず」とし、彼らの犠牲に感謝の意を表した。新政権の発足後、高高度防衛ミサイル(THAAD)配備および対北朝鮮政策をめぐる葛藤が深まっている状況で見せた文大統領の「長津湖外交」だ。
1950年11月27日に始まった長津湖の戦いは「今世紀の地域戦争のうち最も過酷な戦争」(サミュエル・マーシャル)という韓国戦争(朝鮮戦争)の中でも最も激しかった。長津湖の北側に進出して中国共産軍7個師団に包囲された米海兵第1師団は、氷点下40度で2週間にわたり凄まじく戦った。約5000人が死傷した。長津湖の戦いのおかげでメロディスビクトリー号は避難民1万4000人を乗せて興南(フンナム)埠頭を離れることができた。この船に文大統領の祖先が乗っていた。
ところが与党・共に民主党の秋美愛(チュ・ミエ)代表が文大統領の訪米2日前に戦争に言及した。「THAADの政治的意味合いが大きくなり、それが米中葛藤として表出し、南北の誤解があるとすれば、被害は戦争につながるしかない」「戦争は突発的で予告も兆候もない。決定権者が戦争だと宣言する瞬間に起こる」と述べた。波紋が広がると「外交の重要性を強調したものだった」と釈明した。とにかく、韓国戦争の勃発要因を現時点で確認する契機を用意したという点で、秋代表の発言は意味があると考える。
3週以内に韓国全域を占領するという金日成(キム・イルソン)主席の計画に火をつけたのは、1950年1月12日のディーン・アチソン米国務長官の「アチソンライン」(米国のアジア防御線から韓国除外)発言だったことは誰もが知っている。第2次世界大戦後、米国との緊張の中、アジアでの飛躍の踏み台を探していたスターリンも、米軍が支援しないという意味と受け止めて金日成主席の南侵計画を承認した。
67年が過ぎた今、中国がこの地域(さらに国際社会)の主導権ないし覇権追求のために韓米同盟の亀裂を追求するということも、THAAD圧力がその一環であることも常識だ。韓米軍事同盟の弛緩は、言い換えれば第2のアチソンラインを引くことかもしれない。
もちろん韓米同盟は簡単には崩れないだろう。問題は北朝鮮の核・ミサイル(ICBM)武器体系が完成した後の韓半島(朝鮮半島)安保地形でどうするかだ。北朝鮮がソウルを攻撃する場合、米本土が北核攻撃の射程距離にあれば米国は韓国支援に乗り出しにくい。米国の北核対応拡張抑止力の提供も無意味になり、韓半島から手を引けという米国民の要求も強まる可能性がある。グレアム・アリソン米ハーバード大ベルファーセンター所長、ヒュー・ホワイト豪州国立大教授などの専門家は「金正恩(キム・ジョンウン)労働党委員長は決して核ミサイル開発をあきらめない」と診断する。韓国政府が中国のTHAAD圧力に振り回される状況を、外部は韓米同盟が支えてきたこの地域で力の均衡に亀裂が生じる兆候とみている。
こうした状況の仮定があまりにも極端だとか、北朝鮮はソウルに向けて決して核を使用しないとか、北朝鮮は決して韓国を攻撃しないという前提で見るのなら、「安保」という言葉は使ってはならない。安保はたとえ1%でも「仮定」から出発する。
キム・スジョン/ライティングエディター外交安保記者
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