「マリンボーイ」朴泰桓(パク・テファン、27)がまたスターティングブロックに立つ。
朴泰桓は7日午前2時(日本時間)のリオデジャネイロオリンピック(五輪)自由形400メートルをはじめ、自由形100メートル(9日)、200メートル(11日)、1500メートル(14日)の4種目に出場する。朴泰桓は今回の五輪でメダルを獲得できるのだろうか。その答えは「容易ではない」だ。現在の朴泰桓の実力は本人もコーチングスタッフもよく知っている。全盛期を迎えている中国の孫楊(25)に大きく及ばない。朴泰桓の言葉通り朴泰桓の今年の自由形400メートル記録は世界ランキング6位だ。それでも朴泰桓の表情は明るい。朴泰桓がこのように五輪を楽しむのはリオ大会が初めてだろう。
2012年7月29日、英ロンドンオリンピックパークのアクアティクスセンター。自由形400メートルで銀メダルを獲得した朴泰桓は努めて笑っていた。水から出るやいなや放送カメラとぶつかった朴泰桓は毅然とインタビューに応じた。有力な金メダル候補だった朴泰桓は予選で釈然としない判定を経験したことでコンディション調整に失敗し、結局、銀メダルに終わった。それでも朴泰桓は笑った。朴泰桓は2012年に出した自叙伝『フリースタイルヒーロー』でこのように心境を明らかにした。
「笑わなければいけないと考えた。ここで笑うことができなければ本当に負けると思った」。
インタビューを終えた後、朴泰桓はこらえていた涙を流した。朴泰桓は自叙伝で「300メートルでのターンで足の力が抜けた。ここで後れを取ってはいけないと思って必死で泳いだが、結局、銀メダルに終わった。ロンドン五輪は自分にとって大きな傷だった」と振り返った。
朴泰桓の五輪挑戦は涙の歴史だ。朴泰桓は2004年アテネ五輪で最年少の五輪代表(15歳)に選ばれた。朴泰桓の生涯初めての五輪だった。自由形400メートル予選に出場した朴泰桓は緊張のためか、スタート信号の前に水中に飛び込んだ。朴泰桓は自叙伝で「水の中は自分一人だけだった。観衆が私だけを見つめていた。とても恥ずかしくて頭も上げられず控え室に戻らなければいけなかった」と回想した。当時、朴泰桓はコーチングスタッフの目を避け、トイレに隠れて2時間も涙を流した。しばらくは「五輪に行ってシャワーだけ浴びてきた」とからかわれた。スターティングブロックを見るだけで失格の悪夢に苦しんだりした。
アテネの涙が「マリンボーイ」朴泰桓を生まれ変わらせた。朴泰桓は2008年の北京五輪自由形400メートルで、ついにアジア選手で初めて金メダルを首にかけた。水泳の不毛地で育った朴泰桓が世界のトップに立つと大韓民国が沸いた。
頂点に立った後に訪れる虚無感のためか。朴泰桓は翌年の2009年にローマで開かれた世界水泳選手権でメダルを一つも獲得できなかった。全種目で予選落ちする不振を経験した。朴泰桓が自ら「ローマショック」と命名したほど衝撃が大きかった。中国水泳スターの孫楊が登場すると、朴泰桓はトップ圏から徐々に押し出されていった。ロンドン五輪が終わった後はスポンサーとの契約も終わり、引退説まで流れた。朴泰桓本人も「リオ五輪に挑戦するかどうかは分からない」と語った。
朴泰桓は昨年3月、また涙を流した。今度はドーピング(薬物服用)が浮上し、不名誉の主人公になった。朴泰桓は涙を流しながらこう述べた。
「過去10年間のすべての栄光が水の泡になり、すべての努力が“薬屋”として…」。朴泰桓は言葉を続けることができなかった。2014年9月の仁川アジア競技大会を控えて実施したドーピング検査で禁止薬物テストステロンの陽性反応が出たという事実は、全国民に衝撃を与えた。
朴泰桓は「本当に(禁止薬物かどうか)知らなかった。投薬したのがホルモン注射という事実をドーピングで摘発された後に知った」とし「国を代表する選手として心から反省する」と述べた。国民から愛された水泳スターは一瞬にして歪んだ英雄に転落した。朴泰桓は国際水泳連盟(FINA)から18カ月の懲戒を受けた。人々の記憶の中から朴泰桓は薄れていった。「ドーピング選手」という札がついたが、朴泰桓はあきらめなかった。大韓体育会の反対を押し切って法的攻防を繰り広げた末、かろうじてリオ五輪に出場することになった。
<五輪水泳>失格、誤審、ドーピング…そして再挑戦、韓国の「朴泰桓」(2)
朴泰桓は7日午前2時(日本時間)のリオデジャネイロオリンピック(五輪)自由形400メートルをはじめ、自由形100メートル(9日)、200メートル(11日)、1500メートル(14日)の4種目に出場する。朴泰桓は今回の五輪でメダルを獲得できるのだろうか。その答えは「容易ではない」だ。現在の朴泰桓の実力は本人もコーチングスタッフもよく知っている。全盛期を迎えている中国の孫楊(25)に大きく及ばない。朴泰桓の言葉通り朴泰桓の今年の自由形400メートル記録は世界ランキング6位だ。それでも朴泰桓の表情は明るい。朴泰桓がこのように五輪を楽しむのはリオ大会が初めてだろう。
2012年7月29日、英ロンドンオリンピックパークのアクアティクスセンター。自由形400メートルで銀メダルを獲得した朴泰桓は努めて笑っていた。水から出るやいなや放送カメラとぶつかった朴泰桓は毅然とインタビューに応じた。有力な金メダル候補だった朴泰桓は予選で釈然としない判定を経験したことでコンディション調整に失敗し、結局、銀メダルに終わった。それでも朴泰桓は笑った。朴泰桓は2012年に出した自叙伝『フリースタイルヒーロー』でこのように心境を明らかにした。
「笑わなければいけないと考えた。ここで笑うことができなければ本当に負けると思った」。
インタビューを終えた後、朴泰桓はこらえていた涙を流した。朴泰桓は自叙伝で「300メートルでのターンで足の力が抜けた。ここで後れを取ってはいけないと思って必死で泳いだが、結局、銀メダルに終わった。ロンドン五輪は自分にとって大きな傷だった」と振り返った。
朴泰桓の五輪挑戦は涙の歴史だ。朴泰桓は2004年アテネ五輪で最年少の五輪代表(15歳)に選ばれた。朴泰桓の生涯初めての五輪だった。自由形400メートル予選に出場した朴泰桓は緊張のためか、スタート信号の前に水中に飛び込んだ。朴泰桓は自叙伝で「水の中は自分一人だけだった。観衆が私だけを見つめていた。とても恥ずかしくて頭も上げられず控え室に戻らなければいけなかった」と回想した。当時、朴泰桓はコーチングスタッフの目を避け、トイレに隠れて2時間も涙を流した。しばらくは「五輪に行ってシャワーだけ浴びてきた」とからかわれた。スターティングブロックを見るだけで失格の悪夢に苦しんだりした。
アテネの涙が「マリンボーイ」朴泰桓を生まれ変わらせた。朴泰桓は2008年の北京五輪自由形400メートルで、ついにアジア選手で初めて金メダルを首にかけた。水泳の不毛地で育った朴泰桓が世界のトップに立つと大韓民国が沸いた。
頂点に立った後に訪れる虚無感のためか。朴泰桓は翌年の2009年にローマで開かれた世界水泳選手権でメダルを一つも獲得できなかった。全種目で予選落ちする不振を経験した。朴泰桓が自ら「ローマショック」と命名したほど衝撃が大きかった。中国水泳スターの孫楊が登場すると、朴泰桓はトップ圏から徐々に押し出されていった。ロンドン五輪が終わった後はスポンサーとの契約も終わり、引退説まで流れた。朴泰桓本人も「リオ五輪に挑戦するかどうかは分からない」と語った。
朴泰桓は昨年3月、また涙を流した。今度はドーピング(薬物服用)が浮上し、不名誉の主人公になった。朴泰桓は涙を流しながらこう述べた。
「過去10年間のすべての栄光が水の泡になり、すべての努力が“薬屋”として…」。朴泰桓は言葉を続けることができなかった。2014年9月の仁川アジア競技大会を控えて実施したドーピング検査で禁止薬物テストステロンの陽性反応が出たという事実は、全国民に衝撃を与えた。
朴泰桓は「本当に(禁止薬物かどうか)知らなかった。投薬したのがホルモン注射という事実をドーピングで摘発された後に知った」とし「国を代表する選手として心から反省する」と述べた。国民から愛された水泳スターは一瞬にして歪んだ英雄に転落した。朴泰桓は国際水泳連盟(FINA)から18カ月の懲戒を受けた。人々の記憶の中から朴泰桓は薄れていった。「ドーピング選手」という札がついたが、朴泰桓はあきらめなかった。大韓体育会の反対を押し切って法的攻防を繰り広げた末、かろうじてリオ五輪に出場することになった。
<五輪水泳>失格、誤審、ドーピング…そして再挑戦、韓国の「朴泰桓」(2)
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