1953年、英首相チャーチルはノーベル文学賞を受賞した。ノーベル平和賞ではない。同年の文学賞有力候補はヘミングウェイだった。それだけに意外だった。受賞作はチャーチルの回顧録『第二次世界大戦』だ。スウェーデン翰林院の選定理由はこうだ。「歴史的で伝記的な文章で見せた卓越した描写と、高揚した人間の価値を擁護する卓越した雄弁術」のおかげ(for his mastery of historical and biographical description as well as for brilliant oratory in defending exalted human values.)
チャーチルと文学賞の間に違和感はない。彼は専業作家より多くの文章を書いたし、本も出した。チャーチルには43冊(72巻)の著書がある。新聞と雑誌に1000件ほど寄稿した。『第二次世界大戦』は205万語を超える。チャーチルは20代初め、キューバとインドの戦場にいた。新聞に戦争の記事を書いた。彼はボーア戦争の現場に行った。その時は従軍記者だった。彼は参戦の経験を本にして出した。ベストセラーとなり、大金を稼いだ。英国のジャーナリスト兼歴史学者ポール・ジョンソンは「チャーチルの能力は戦争を言語に変え、言語をお金に変えること」と語った。
チャーチルは言葉の力を早くから体得した。「人間に与えられた才能の中で演説の才能が最高だ。演説を楽しむ人は偉大な王より長く権力を行使する」(『修辞学の踏み台(The Scaffolding of Rhetoric)』、1897年)。彼は立派な演説と演説家の共通点をこのように集約した。「目を引く存在感、正確な語彙の使用、韻律、論争の蓄積、比喩の適切な駆使」。
チャーチルは言語の調教師だ。「首脳外交」という言葉はチャーチルが作った。彼は軽快なユーモアを見せた。チャーチルが議事堂に遅刻した時だ。議員の批判に対し、彼は「皆さんも私のように美しい妻と暮らせば朝早く起きるのが難しいだろう」と言っていなした。チャーチルは多くの名言を製造した。その言葉の中には洞察と知恵があふれる。
フルトンの「チャーチル博物館」には彼の語録があちこちにある。
「The price of greatness isresponsibility」(偉大さの代償は責任だ)
「A nation that forgets its past has no future」(過去を忘れた民族に未来はない)
「never give in! in nothing great and small,large and petty, never give in except to convictions of honour and good sense(絶対にあきらめるな――大事であれ些事であれ、重要なことであれ取るに足らないことであれ、信念と名誉と良識の許さぬ限りは決して屈服するな)
「A fanatic is one who can’t change his mind and won’t change the subject(狂信者とは考えを変えることができず、話題を変えようとしない人のことだ)
「To jaw-jaw is always better than war-war」(交渉は常に戦争よりましだ)
「Broadly speaking, the short waords are the best, and the old words are best of all(大まかに言えば短い言葉が最もよく、その中でも古い言葉が最もよい)。
チャーチルは多才多能だった。彼は生涯500点ほどの絵を描いた。彼の作品「ザ・ゴールドフィッシュ・プール・アット・チャートウェル」は2014年のサザビー競売で280万ドルで売れた。彼の私邸だったチャートウェルは観光名所だ。
◆「鉄のカーテン」 ナチスのゲッベルスも使ったが注目されず
「鉄のカーテン」はチャーチルの演説前にも存在した。その言葉は劇場で防火用安全装置を意味した。1918年、ロシアの作家ワシリー・ロザノフ(Vasily Rozanov)は「ロシアの歴史に鉄のカーテンが掛けられている」と表現した。
英国女性人権運動家スノーデン(Ethel Snowden)はその言葉を巧みに整えた。共産主義ロシアを「突き破ることができない障壁」といった(1920年)。第2次世界大戦中、ナチスドイツの宣伝相ゲッベルス(Joseph Goebbles)は『ソ連、鉄のカーテンの後ろに』という論文(1943年5月)を書いた。しかし彼の言葉は注目を引かなかった。
その言葉を作ったのはチャーチルでない。しかし言葉の破壊力は時と場所、人物の三拍子がそろってこそ生じる。チャーチルは決定的な状況で決定打を飛ばした。共産主義はカーテンの向こう側の闇と同一視された。チャーチルの鉄のカーテンは歴史言語の殿堂に入った。その言葉は派生した。冷戦時代に中国は「竹のカーテン」と呼ばれた。
チャーチルと文学賞の間に違和感はない。彼は専業作家より多くの文章を書いたし、本も出した。チャーチルには43冊(72巻)の著書がある。新聞と雑誌に1000件ほど寄稿した。『第二次世界大戦』は205万語を超える。チャーチルは20代初め、キューバとインドの戦場にいた。新聞に戦争の記事を書いた。彼はボーア戦争の現場に行った。その時は従軍記者だった。彼は参戦の経験を本にして出した。ベストセラーとなり、大金を稼いだ。英国のジャーナリスト兼歴史学者ポール・ジョンソンは「チャーチルの能力は戦争を言語に変え、言語をお金に変えること」と語った。
チャーチルは言葉の力を早くから体得した。「人間に与えられた才能の中で演説の才能が最高だ。演説を楽しむ人は偉大な王より長く権力を行使する」(『修辞学の踏み台(The Scaffolding of Rhetoric)』、1897年)。彼は立派な演説と演説家の共通点をこのように集約した。「目を引く存在感、正確な語彙の使用、韻律、論争の蓄積、比喩の適切な駆使」。
チャーチルは言語の調教師だ。「首脳外交」という言葉はチャーチルが作った。彼は軽快なユーモアを見せた。チャーチルが議事堂に遅刻した時だ。議員の批判に対し、彼は「皆さんも私のように美しい妻と暮らせば朝早く起きるのが難しいだろう」と言っていなした。チャーチルは多くの名言を製造した。その言葉の中には洞察と知恵があふれる。
フルトンの「チャーチル博物館」には彼の語録があちこちにある。
「The price of greatness isresponsibility」(偉大さの代償は責任だ)
「A nation that forgets its past has no future」(過去を忘れた民族に未来はない)
「never give in! in nothing great and small,large and petty, never give in except to convictions of honour and good sense(絶対にあきらめるな――大事であれ些事であれ、重要なことであれ取るに足らないことであれ、信念と名誉と良識の許さぬ限りは決して屈服するな)
「A fanatic is one who can’t change his mind and won’t change the subject(狂信者とは考えを変えることができず、話題を変えようとしない人のことだ)
「To jaw-jaw is always better than war-war」(交渉は常に戦争よりましだ)
「Broadly speaking, the short waords are the best, and the old words are best of all(大まかに言えば短い言葉が最もよく、その中でも古い言葉が最もよい)。
チャーチルは多才多能だった。彼は生涯500点ほどの絵を描いた。彼の作品「ザ・ゴールドフィッシュ・プール・アット・チャートウェル」は2014年のサザビー競売で280万ドルで売れた。彼の私邸だったチャートウェルは観光名所だ。
◆「鉄のカーテン」 ナチスのゲッベルスも使ったが注目されず
「鉄のカーテン」はチャーチルの演説前にも存在した。その言葉は劇場で防火用安全装置を意味した。1918年、ロシアの作家ワシリー・ロザノフ(Vasily Rozanov)は「ロシアの歴史に鉄のカーテンが掛けられている」と表現した。
英国女性人権運動家スノーデン(Ethel Snowden)はその言葉を巧みに整えた。共産主義ロシアを「突き破ることができない障壁」といった(1920年)。第2次世界大戦中、ナチスドイツの宣伝相ゲッベルス(Joseph Goebbles)は『ソ連、鉄のカーテンの後ろに』という論文(1943年5月)を書いた。しかし彼の言葉は注目を引かなかった。
その言葉を作ったのはチャーチルでない。しかし言葉の破壊力は時と場所、人物の三拍子がそろってこそ生じる。チャーチルは決定的な状況で決定打を飛ばした。共産主義はカーテンの向こう側の闇と同一視された。チャーチルの鉄のカーテンは歴史言語の殿堂に入った。その言葉は派生した。冷戦時代に中国は「竹のカーテン」と呼ばれた。
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