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命令服従が根付いたフォルクスワーゲン 「危険な疾走」で事故(1)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版
漸次佳境、一波万波だ。19日(現地時間)に米国でフォルクスワーゲンが一部ディーゼル車種の排出ガスを操作したという事実が伝えられた。その後の状況は翌日のことを予測するのが難しいほど緊迫している。フォルクスワーゲンのウィンターコルンCEOは事件が発生した直後、「収拾に最善を尽くす」と述べたが、結局、23日に辞任した。

フォルクスワーゲングループはフォルクスワーゲン・アウディ・ベントレー・ブガッティ・ポルシェ・ランボルギーニ・ドゥカティ(バイク)・スカニア(トラック)など12ブランドを率いる欧州最大の自動車企業。フォルクスワーゲングループは最近、高度成長を繰り返していた。昨年、販売台数が1000万台の壁を越えた。37年の創社以来初めてだ。トヨタに次ぐ世界2位となった。

今年は上半期だけで販売504万台、売上高1088億ユーロ。特に営業利益が70億ユーロと、前年同期比で13%も増えた。大きな異変がない限りフォルクスワーゲングループは今年世界トップになる見込みだったが、今回の「ディーゼルゲート」で絶体絶命の危機を迎えた。


フォルクスワーゲンとはどんな企業なのか。始まりは1934年に遡る。当時のドイツ総統アドルフ・ヒトラーはドイツ自動車業界に、国民の誰もが購入できる小型車を開発するよう指示した。目標は非常に具体的だった。大人2人と子ども3人を乗せて時速60マイルで走り、寒い冬にもエンジンが支障なくかからなければならなかった。

ヒトラーが掲げた条件は当時の技術では実現不可能だった。しかし天才エンジニア、フェルディナンド・ポルシェがこれを現実にした。ポルシェは空冷式エンジンを搭載して後輪を動かす小型車を設計した。ヒトラーはドイツ労働戦線にこのプロジェクトを任せた。

1938年6月、国民車(ドイツ語でフォルクスワーゲン)発表行事が開かれた。現在の本社と工場および自動車引き渡し場、博物館が位置するヴォルフスブルクだった。30万台以上の予約があった。しかし最初の車が出庫される1カ月前の39年9月、ヒトラーは第2次世界大戦を起こした。ビートル(当時の名前はドイツ語で『喜びの力』のイニシャルをつけたKdF)は直ちに軍用車に改造され、戦場に投入された。

戦後、ドイツは廃虚となった。連合軍の爆撃で破壊されたフォルクスワーゲン工場は再び稼働した。フォルクスワーゲンは98年の生産打ち切りまでビートルを2200万台販売した。

フォルクスワーゲンは最初から競争力を持っていたわけではない。革新のカギはフォルクスワーゲンが64年に買収したアウディ(当時はアウトウニオン)が握っていた。小型車に有利な水冷式エンジンと前輪駆動技術があった。

フォルクスワーゲンはアウディの2つの技術を活用し、ビートルの後継モデルの開発に入った。73年のパサートをはじめ、ゴルフ、ポロなどを相次いで出し、大衆車ブランドとしての地位を固めた。フォルクスワーゲンを現在の規模に育てた主人公はフェルディナント・ピエヒだった。彼はビートルを設計してフォルクスワーゲンの初期を導いたポルシェの孫だ。

ピエヒは37年4月17日、オーストリア・ウィーンで生まれた。ピエヒはスイスのチューリッヒ連邦工科大学で機械工学を専攻した。卒業作品としてレースカーのエンジンを設計するほ優れていた。卒業後、彼は祖父の会社ポルシェで仕事を始めた。

彼は祖父のように優れた自動車エンジニアだった。1000馬力以上の917を開発し、ポルシェの名前を広く知らせた。しかし自分の主張を曲げない頑固な性格だった。このため会社と一族の中で絶えず衝突した。71年、ポルシェとピエヒ一族は会社の経営からすべて退くことにした。この時、ピエヒもポルシェを出ることになった。 (中央SUNDAY第446号)







命令服従が根付いたフォルクスワーゲン 「危険な疾走」で事故(2)

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