中央日報は創刊50周年および韓日国交正常化50周年を迎え、特別企画「栄辱の韓日戦半世紀」を準備した。韓日戦には韓国国民の歓呼と嘆き、希望と絶望が溶け込んでいる。サッカーでは「絶対に負けてはいけない」という闘争心が、野球では「必ず追いつく」という強い気持ちがあった。また、韓日戦は韓国が「スポーツ強国」に成長するうえで決定的な影響を及ぼした。韓日戦を振り返ると、両国の過去・現在はもちろん、ともに進むべき未来が見える。
サッカーは韓日戦の中でも特別だ。数十年間にわたりさまざまな面で日本に遅れをとっていた韓国が克日できる唯一の種目だった。1954年3月の大韓民国建国後初めての対戦から61年間に77試合が行われたサッカー韓日戦で、韓国は40勝14敗23分け。
日帝強占期を経験した民族にとってサッカー韓日戦は過去の歴史に対する慰安であり激励の場だった。「サッカーだけは韓国が日本より上」という自負心があった。最初の韓日戦も勝利に対する確信があった。韓国戦争(朝鮮戦争)休戦の翌年、54年3月に韓国はスイスワールドカップ(W杯) アジア予選で日本とぶつかった。李承晩(イ・スンマン)大統領が「大韓民国の地で日章旗が翻ることは認められない」とし、日本代表の入国を許可しなかった。このためホームアンドアウエーの試合をともに日本で行わなければならなかった。
当時の韓国代表のイ・ユヒョン監督は「建国後初めての韓日戦だった。日本に勝てなければ玄海灘(大韓海峡)で死ぬという誓約書を書いた」と語った。3月7日に東京明治神宮競技場で行われた第1戦は大雪のため泥になったグラウンドで行われた。韓国選手は死を覚悟して戦い、5-1で勝った。1週間後に行われた第2戦は2-2で引き分けた。その後もワールドカップ(W杯)・オリンピック(五輪)など各種国際大会で韓国は日本に勝った。
歴代対戦成績では韓国が大きくリードしているが、試合内容は接戦が多かった。90年代の日本の看板ゴールゲッター三浦知良(48)のマークマンとして活躍したチェ・ヨンイル元東亜大監督(49)は「試合で三浦を完全に封じて気分が悪かったのか、日本のやくざが『次に日本に来れば殺す』と脅迫までした。その後は日本旅行をあきらめたが、DFとして役割をよく果たしたという称賛と考える」と述べた。
<栄辱の韓日戦半世紀>(上)サッカー…「絶対に負けられない」77回の戦争でない戦争(2)
サッカーは韓日戦の中でも特別だ。数十年間にわたりさまざまな面で日本に遅れをとっていた韓国が克日できる唯一の種目だった。1954年3月の大韓民国建国後初めての対戦から61年間に77試合が行われたサッカー韓日戦で、韓国は40勝14敗23分け。
日帝強占期を経験した民族にとってサッカー韓日戦は過去の歴史に対する慰安であり激励の場だった。「サッカーだけは韓国が日本より上」という自負心があった。最初の韓日戦も勝利に対する確信があった。韓国戦争(朝鮮戦争)休戦の翌年、54年3月に韓国はスイスワールドカップ(W杯) アジア予選で日本とぶつかった。李承晩(イ・スンマン)大統領が「大韓民国の地で日章旗が翻ることは認められない」とし、日本代表の入国を許可しなかった。このためホームアンドアウエーの試合をともに日本で行わなければならなかった。
当時の韓国代表のイ・ユヒョン監督は「建国後初めての韓日戦だった。日本に勝てなければ玄海灘(大韓海峡)で死ぬという誓約書を書いた」と語った。3月7日に東京明治神宮競技場で行われた第1戦は大雪のため泥になったグラウンドで行われた。韓国選手は死を覚悟して戦い、5-1で勝った。1週間後に行われた第2戦は2-2で引き分けた。その後もワールドカップ(W杯)・オリンピック(五輪)など各種国際大会で韓国は日本に勝った。
歴代対戦成績では韓国が大きくリードしているが、試合内容は接戦が多かった。90年代の日本の看板ゴールゲッター三浦知良(48)のマークマンとして活躍したチェ・ヨンイル元東亜大監督(49)は「試合で三浦を完全に封じて気分が悪かったのか、日本のやくざが『次に日本に来れば殺す』と脅迫までした。その後は日本旅行をあきらめたが、DFとして役割をよく果たしたという称賛と考える」と述べた。
<栄辱の韓日戦半世紀>(上)サッカー…「絶対に負けられない」77回の戦争でない戦争(2)
この記事を読んで…