「謝罪を受けなければいけない。それを聞いてこそ私も死ぬことができる」。
病室のベッドで横になっているおばあさんは、いくつかの言葉も全力を絞り出さなければいけないほど衰えていた。生存する慰安婦被害者のうち最高齢の金福得(キム・ボクドゥク)さん(97)は健康が良くない。現在、慶尚南道統営(トンヨン)の高齢者専門病院に入院している。記者が近くで話す言葉も補聴器を着用してこそ何とか聞こえる。それでも「日本の謝罪を受けなければいけない」という言葉は力強く話した。
3人姉弟の一番上の金さんは、父の死後、12歳の時から家長の役割をした。慰安所に連れて行かれたのは22歳だった。網工場で働いている時に会った日本人が「お金をもっと稼げる工場に就職させる」と話すと、その言葉を信じて故郷の統営を離れて釜山(プサン)に行った。
しかし工場の話は嘘だった。金さんは船に乗せられ、戦争中だった中国大連に連れて行かれた。そこで金さんは金福得という名前を奪われ、日本軍慰安婦「フミコ」と呼ばれた。死のうと思って海に飛び込んだりもしたが、故郷の母のことを思うと死に切れなかった。3年間のつらい歳月を送った後、今度はフィリピンに連れて行かれた。このように地獄のような慰安婦生活に耐えながら7年が過ぎた。
1945年、解放がきた。金さんは何とか帰途に就き、苦労して統営に戻った。しかし金さんを待つ故郷の生活は過酷なものだった。母に会うことを待ち望んでいたが、すでに母は亡くなっていた。金さんは故郷で15歳も年上の男性の家に妾として入った。夫はアルコール中毒者だった。金さんは夫の暴行に苦しみ、2回の流産を経験した。金さんは自ら書いた一代記で「最初から期待して設けた家庭ではなかったが、苦痛であり死ぬほど大変だった」と振り返っている。
数年後には戦争が始まった。今度は同族間の戦いだった。金さんは生きるためにパルチザンに食事の準備をし、避難しながら命をつないだ。
<慰安婦生存者13人証言>病床で「日本が謝罪さえすれば私は安らかに目を閉じる」(2)
病室のベッドで横になっているおばあさんは、いくつかの言葉も全力を絞り出さなければいけないほど衰えていた。生存する慰安婦被害者のうち最高齢の金福得(キム・ボクドゥク)さん(97)は健康が良くない。現在、慶尚南道統営(トンヨン)の高齢者専門病院に入院している。記者が近くで話す言葉も補聴器を着用してこそ何とか聞こえる。それでも「日本の謝罪を受けなければいけない」という言葉は力強く話した。
3人姉弟の一番上の金さんは、父の死後、12歳の時から家長の役割をした。慰安所に連れて行かれたのは22歳だった。網工場で働いている時に会った日本人が「お金をもっと稼げる工場に就職させる」と話すと、その言葉を信じて故郷の統営を離れて釜山(プサン)に行った。
しかし工場の話は嘘だった。金さんは船に乗せられ、戦争中だった中国大連に連れて行かれた。そこで金さんは金福得という名前を奪われ、日本軍慰安婦「フミコ」と呼ばれた。死のうと思って海に飛び込んだりもしたが、故郷の母のことを思うと死に切れなかった。3年間のつらい歳月を送った後、今度はフィリピンに連れて行かれた。このように地獄のような慰安婦生活に耐えながら7年が過ぎた。
1945年、解放がきた。金さんは何とか帰途に就き、苦労して統営に戻った。しかし金さんを待つ故郷の生活は過酷なものだった。母に会うことを待ち望んでいたが、すでに母は亡くなっていた。金さんは故郷で15歳も年上の男性の家に妾として入った。夫はアルコール中毒者だった。金さんは夫の暴行に苦しみ、2回の流産を経験した。金さんは自ら書いた一代記で「最初から期待して設けた家庭ではなかったが、苦痛であり死ぬほど大変だった」と振り返っている。
数年後には戦争が始まった。今度は同族間の戦いだった。金さんは生きるためにパルチザンに食事の準備をし、避難しながら命をつないだ。
<慰安婦生存者13人証言>病床で「日本が謝罪さえすれば私は安らかに目を閉じる」(2)
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