「日本が朝鮮の若い娘を連行して戦争の性的奴隷を作ったのだから、しっかりと謝罪をしなければならない」。
5日、大邱市達西区上仁洞(テグシ・タルソグ・サンインドン)で会った李容洙(イ・ヨンス)さん(87)は、物静かながらも断固とした声で口を開いた。7月末、米国ワシントンDCで開かれた米下院の日本軍の慰安婦決議案(HR121)採択8周年記念式に参加して、ちょうど帰国したばかりで疲れているはずだったが、終始正しい姿勢だった。李さんは韓服にきれいにアイロンをかけてゴム靴を磨き、旅行用トランクに入れたといった。その翌週に国会で開かれた慰安婦被害者の臨床美術治療作品展(8月10日)、中国人慰安婦被害者おばあさんとの出会い(11日)、水曜集会(12日)への出席のためだった。李おばあさんは「疲れるが、日本の謝罪を受けるまでは疲れてはいけない」と話した。
李おばあさんは自身を「おくびょうな子供だった」と言った。大邱市北区古城洞(テグシ・プック・コソンドン)で生まれ、兄弟の中の1人娘として生まれ、愛されながら育ったからだ。
彼女は16歳のときに大邱の自宅の近所の川岸でカワニナをとっていて「友だちのプンスン」と一緒に、軍帽を深くかぶり鼻と口しか見えない男に引きずられて行った。生まれて初めて汽車に乗った。その旅行が不幸の始まりになるとは思わなかった。平安道安州(ピョンアンド・アンジュ)で船に乗り換えた。「どこへ行くのかも分からなかった。後になって台湾の新竹の神風部隊ということを知った」。
台湾に向かう船で軍人に強姦された。朝鮮の少女5人と日本軍300人が一緒の船にいた。李おばあさんは「その時は強姦という言葉も知らなかった。『こうするために私を連れてきたんだな』という考えだけが浮かんだ」と語った。「船が壊れて皆一緒に死ぬほうがましだとすら思ったが…」。その後は自分とそこにいた女たちはずっと軍人たちにそうやって何度もやられた」。
台湾に到着するとすぐに慰安婦生活が始まった。一日に4、5人の割合で軍人をあてがわれた。多い時は20人を超えた。空襲で一日に何度も疎開しなければならなかったが、その時も軍人の欲望はおさまらなかった。爆撃が静かになれば田んぼでも畑でもどこでもテントが張られ、そこで軍人を受け入れなければならなかった。「風が吹いてテントが吹き飛ばされても、そいつは最後まで自分のやることをやって戻った。獣だよ、獣」。李おばあさんは、お金を受け取った記憶も、診断を受けた記憶もないといった。
「軍人の部屋に入らないと言ったら、主人(管理者)が両手にひもを巻いて電気拷問をする。その時、私が『お母さん~』とどんなに叫んだのか、その声が耳をふさいでも今も聞こえる」。
後遺症のために李おばあさんは真夏でも足が冷え、しばしばけいれんが起こる。慰安所を思い出すと身震いがして、睡眠剤を飲みながら過ごしている。「以前は薬を半分飲んでいたが、今は一粒全部飲まなければならない。薬を飲めば変なものが見え、ろくに寝つけず横になっている途中で起きる」。
<慰安婦生存者13人証言>おばあさんの韓服(2)
5日、大邱市達西区上仁洞(テグシ・タルソグ・サンインドン)で会った李容洙(イ・ヨンス)さん(87)は、物静かながらも断固とした声で口を開いた。7月末、米国ワシントンDCで開かれた米下院の日本軍の慰安婦決議案(HR121)採択8周年記念式に参加して、ちょうど帰国したばかりで疲れているはずだったが、終始正しい姿勢だった。李さんは韓服にきれいにアイロンをかけてゴム靴を磨き、旅行用トランクに入れたといった。その翌週に国会で開かれた慰安婦被害者の臨床美術治療作品展(8月10日)、中国人慰安婦被害者おばあさんとの出会い(11日)、水曜集会(12日)への出席のためだった。李おばあさんは「疲れるが、日本の謝罪を受けるまでは疲れてはいけない」と話した。
李おばあさんは自身を「おくびょうな子供だった」と言った。大邱市北区古城洞(テグシ・プック・コソンドン)で生まれ、兄弟の中の1人娘として生まれ、愛されながら育ったからだ。
彼女は16歳のときに大邱の自宅の近所の川岸でカワニナをとっていて「友だちのプンスン」と一緒に、軍帽を深くかぶり鼻と口しか見えない男に引きずられて行った。生まれて初めて汽車に乗った。その旅行が不幸の始まりになるとは思わなかった。平安道安州(ピョンアンド・アンジュ)で船に乗り換えた。「どこへ行くのかも分からなかった。後になって台湾の新竹の神風部隊ということを知った」。
台湾に向かう船で軍人に強姦された。朝鮮の少女5人と日本軍300人が一緒の船にいた。李おばあさんは「その時は強姦という言葉も知らなかった。『こうするために私を連れてきたんだな』という考えだけが浮かんだ」と語った。「船が壊れて皆一緒に死ぬほうがましだとすら思ったが…」。その後は自分とそこにいた女たちはずっと軍人たちにそうやって何度もやられた」。
台湾に到着するとすぐに慰安婦生活が始まった。一日に4、5人の割合で軍人をあてがわれた。多い時は20人を超えた。空襲で一日に何度も疎開しなければならなかったが、その時も軍人の欲望はおさまらなかった。爆撃が静かになれば田んぼでも畑でもどこでもテントが張られ、そこで軍人を受け入れなければならなかった。「風が吹いてテントが吹き飛ばされても、そいつは最後まで自分のやることをやって戻った。獣だよ、獣」。李おばあさんは、お金を受け取った記憶も、診断を受けた記憶もないといった。
「軍人の部屋に入らないと言ったら、主人(管理者)が両手にひもを巻いて電気拷問をする。その時、私が『お母さん~』とどんなに叫んだのか、その声が耳をふさいでも今も聞こえる」。
後遺症のために李おばあさんは真夏でも足が冷え、しばしばけいれんが起こる。慰安所を思い出すと身震いがして、睡眠剤を飲みながら過ごしている。「以前は薬を半分飲んでいたが、今は一粒全部飲まなければならない。薬を飲めば変なものが見え、ろくに寝つけず横になっている途中で起きる」。
<慰安婦生存者13人証言>おばあさんの韓服(2)
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