『伊藤博文と大韓帝国』
ハン・サンイル著
出版:カチ、460ページ
価格:3万ウォン
1909年10月26日、満州のハルビン駅で安重根(アン・ジュングン)義士に狙撃された大韓帝国初代統監・伊藤博文(1841~1909)に対する評価は交錯する。私たちには韓日併合を主導した人物として認識されているが、学界では異見も存在してきた。
伊藤の保護統治は最後まで韓国併合を意図しておらず、彼の政策は韓国人の文明と自治能力を高めようとするものだったという主張だ。したがって安重根が伊藤を暗殺していなかったら、韓国は日本の植民地にならなかった場合もあると話す者たちもいる。本当にそうだろうか。
日本の帝国主義と韓国併合問題を研究してきたハン・サンイル国民大名誉教授(74)は、この5年余りの間に伊藤博文についての多様な資料を掘り返した。表向きでは伊藤は併合反対論者に違いなかった。彼は統監在任中に日本は韓国を併合する必要もなく意志もないという点を機会があるたびに強調した。だが実際の彼が実施した政策を調べてみれば違っていた。伊藤が韓国問題に深く関与したのは1905年の日露戦争末から大韓帝国の初代統監職位から退いた1909年までの4年にもならない短い期間だった。
しかしその期間中に伊藤は当時首相だった桂太郎が話した通り「有史以来の宿題で維新以来の懸案」だった日本の韓半島(朝鮮半島)支配を可能にした。著者は彼が保護統治の名分で前面に出した文明・啓蒙・殖産興業・独立・自治能力などは結局、日本の「国是」を完成するための手段に過ぎなかったという結論を下す。
本は前半の相当部分を伊藤博文の出生と成長、日本での政治的立場を扱うことに割いた。伊藤は日本で明治体制の基礎を固め、国家の枠組みともいえる憲法草案を起草し、今日までも続く保守政党を創党した。日露戦争と日清戦争も主導した。彼は結局、日本政府の核心人物であり、韓国併合に関連した政策もやはり彼の表面的な言説と別に日本政府の大きな構想のもとに行われるしかなかったということだ。
一例として1905年10月に高宗(コジョン)に会った彼は、外交権を日本に譲り渡すことを要求してこのように話す。「この決定は日本政府が全てを考慮して決めた最終的なことです。万が一、陛下が拒否しても帝国政府はすでに決めたことであって、そのまま施行することになります」。
それならなぜ伊藤の統治に対する“美化”が可能だったのだろうか。著者は、大韓帝国の運命を分ける重要な瞬間の記録が日本に詳しく残っているが、韓国には存在していないという点をあげる。加害者の立場だけを反映した当時の記録は、事実の記録というよりもある目的、すなわち日本の韓国併合を正当化するための作られた歴史にすぎない。さらに憂慮されるのは、こうした動きが現在も続いているという事実だ。過去の歴史を再び書いたり消そうとしたりする安倍政権の試みを見逃してはいけない理由だ。
◆「似た者同士」の豊臣秀吉と伊藤博文
伊藤博文は日本人の間では豊臣秀吉(1536~98)とたびたび比較される。織田信長(1534~82)のわらじを持っていた小者の身分から幕府の最高権力者の座についた豊臣は、日本の歴史で無から権力の頂上に上り詰めた象徴的な人物として挙げられる。
伊藤博文の場合も似ていた。伊藤は非常に貧しい家に生まれた。大変な貧困で官米を流用したためそれ以上故郷では生きていけず追い出されなければならなかった彼の父親は、あらゆる苦労の末に下級武士階級への身分上昇を成し遂げる。伊藤博文は正式な教育を受けられなかったが、読書で積み重ねた知力を基に幕末の志士と幅広く交流し、1868年に明治新政府に登用された後は数多くの意見書を提出して地位を固めていった。海の彼方の朝鮮の地に大きな関心を見せたという点もまた2人の共通点だ。
ハン・サンイル著
出版:カチ、460ページ
価格:3万ウォン
1909年10月26日、満州のハルビン駅で安重根(アン・ジュングン)義士に狙撃された大韓帝国初代統監・伊藤博文(1841~1909)に対する評価は交錯する。私たちには韓日併合を主導した人物として認識されているが、学界では異見も存在してきた。
伊藤の保護統治は最後まで韓国併合を意図しておらず、彼の政策は韓国人の文明と自治能力を高めようとするものだったという主張だ。したがって安重根が伊藤を暗殺していなかったら、韓国は日本の植民地にならなかった場合もあると話す者たちもいる。本当にそうだろうか。
日本の帝国主義と韓国併合問題を研究してきたハン・サンイル国民大名誉教授(74)は、この5年余りの間に伊藤博文についての多様な資料を掘り返した。表向きでは伊藤は併合反対論者に違いなかった。彼は統監在任中に日本は韓国を併合する必要もなく意志もないという点を機会があるたびに強調した。だが実際の彼が実施した政策を調べてみれば違っていた。伊藤が韓国問題に深く関与したのは1905年の日露戦争末から大韓帝国の初代統監職位から退いた1909年までの4年にもならない短い期間だった。
しかしその期間中に伊藤は当時首相だった桂太郎が話した通り「有史以来の宿題で維新以来の懸案」だった日本の韓半島(朝鮮半島)支配を可能にした。著者は彼が保護統治の名分で前面に出した文明・啓蒙・殖産興業・独立・自治能力などは結局、日本の「国是」を完成するための手段に過ぎなかったという結論を下す。
本は前半の相当部分を伊藤博文の出生と成長、日本での政治的立場を扱うことに割いた。伊藤は日本で明治体制の基礎を固め、国家の枠組みともいえる憲法草案を起草し、今日までも続く保守政党を創党した。日露戦争と日清戦争も主導した。彼は結局、日本政府の核心人物であり、韓国併合に関連した政策もやはり彼の表面的な言説と別に日本政府の大きな構想のもとに行われるしかなかったということだ。
一例として1905年10月に高宗(コジョン)に会った彼は、外交権を日本に譲り渡すことを要求してこのように話す。「この決定は日本政府が全てを考慮して決めた最終的なことです。万が一、陛下が拒否しても帝国政府はすでに決めたことであって、そのまま施行することになります」。
それならなぜ伊藤の統治に対する“美化”が可能だったのだろうか。著者は、大韓帝国の運命を分ける重要な瞬間の記録が日本に詳しく残っているが、韓国には存在していないという点をあげる。加害者の立場だけを反映した当時の記録は、事実の記録というよりもある目的、すなわち日本の韓国併合を正当化するための作られた歴史にすぎない。さらに憂慮されるのは、こうした動きが現在も続いているという事実だ。過去の歴史を再び書いたり消そうとしたりする安倍政権の試みを見逃してはいけない理由だ。
◆「似た者同士」の豊臣秀吉と伊藤博文
伊藤博文は日本人の間では豊臣秀吉(1536~98)とたびたび比較される。織田信長(1534~82)のわらじを持っていた小者の身分から幕府の最高権力者の座についた豊臣は、日本の歴史で無から権力の頂上に上り詰めた象徴的な人物として挙げられる。
伊藤博文の場合も似ていた。伊藤は非常に貧しい家に生まれた。大変な貧困で官米を流用したためそれ以上故郷では生きていけず追い出されなければならなかった彼の父親は、あらゆる苦労の末に下級武士階級への身分上昇を成し遂げる。伊藤博文は正式な教育を受けられなかったが、読書で積み重ねた知力を基に幕末の志士と幅広く交流し、1868年に明治新政府に登用された後は数多くの意見書を提出して地位を固めていった。海の彼方の朝鮮の地に大きな関心を見せたという点もまた2人の共通点だ。
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