--莫大な施設投資にかかる財源の確保、競技場の事後活用問題など、すでにオリンピック後を心配する人が多い。経済的オリンピックにするにはどうするべきか。
「中央政府は福祉基金・国防費などの費用が多く、数千億ウォン、数兆ウォンを(平昌に)出すことはできない。また、アジア競技大会3回、ユニバーシアード3回、漕艇大会に射撃、F1の大会まで、地方政府が無分別に招致する大会ごとに企業が(費用を)出すこともできない。なら、マーケティングをしなければいけない。アイスホッケーとフィギュアスケートが人を最も多く集める種目だが、江陵(カンヌン)で競技をすれば観光客が来るだろうか」
--どんな方法があるのか。
「国内の分散開催を考えることができる。施設・放送インフラが整っているソウルでフィギュアスケート競技をすれば、世界から観光客が集まり、ブームが起き、マーケティングになる。地方の利害関係のために手放さないというのはいけない。時間がないといってもうまく交渉すればIOCも同意するだろう」
--南北関係がふさがっている。北朝鮮との分散開催議論をきっかけに対話ができるという主張もある。
「通信・ビジネス・出入国・宿舎・安全・輸送・放送衛星など実務的に北が国を開かなければいけない問題がある。しかしスポーツ交流を通じて対話の突破口を開くのは政治的には非常によいことだ。政府がそのようにするという意志があれば良いアイデアだと思う。実現のためにはまずIOCと十分に交渉し、IOCがOKしなければいけない」
平昌オリンピックと金元委員長の縁は妙だ。冬季オリンピック招致アイデアを出し、招致戦をして大会の招致に失敗したため、IOC副委員長職を手放さなければならなかった。平昌オリンピック招致妨害という批判を受けながらだ。
最初の招致戦があった2003年、政界は「金元委員長がIOC副委員長になるために平昌招致に消極的であり、結局、バンクーバーがつかんだ」とし、金元委員長に招致失敗の責任を転嫁した。2005年には世界テコンドー連盟など体育団体のトップとして在職し、団体の公金を横領したという容疑で拘束、起訴されたりもした。一連の事件で金元委員長は結局、すべてのスポーツ団体の肩書を手放して退いた。
--妨害波紋の真相は。
「私が副委員長をまたするために平昌招致を妨害したというが、話にならない。自分たちが失敗した責任を私にかぶせた。国連人権委員会の調査報告書が私を『平昌招致失敗に対する政治的な犠牲』と表現したほどだ」
--副委員長出馬が平昌招致にある程度の影響を与えたのではないのか。
「当時ソウルでは平昌が当然選ばれるとみられていたが、実際、バンクーバーと平昌は天と地の差だった。サマランチ当時IOC委員長が私に『バンクーバーはいけない。だから今回、3位ではなく2位にさえなればいい。第1副委員長を付けて4年後にまた推進すれば必ず大丈夫だから戦略を立ててほしい』と助言した。バンクーバーに3票差で落選したのは、それなりに私が動いて票が集まった結果だった」
--2007年にソチに敗れた時は招致活動をしなかったが。
「盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領とプーチン大統領がともに表決が行われたグアテマラに行った。私は慶応大訪問教授だったが、サマランチが電話をかけてきて『来るのか』と尋ねてきた。『行かなければいけないか』と尋ねると、『今回だめならまた責任をかぶることになるから来るな』と言われた。青瓦台から『来ないで電話・ファックスで運動をしてほしい』という要請を受けた」
--公金横領容疑で有罪判決を受けたのは過ちがあったのは。
「秘書4人の7年間の給料、7年分の新聞代、ファックス使用料、食事代が世界テコンドー連盟から出て、これが横領だとして私を起訴した。私のために平昌招致が失敗したと網をかけておいて、それを正当化しようとしたのだ。裁判中だった2005年5月、目の手術をし、セブランス病院に通っていたが、金正吉(キム・ジョンギル)体育会長が訪ねてきてIOC副委員長の辞表を書くように言われた。拘禁状態で書くのは国の体面をけがすため、仮釈放後に書く』と言ったが、だめだというので5月9日付で辞表を書いた」「その時に辞表を書いたことを後悔しているか」という質問には、「出さないためにもっと捕まえておくとすればどうするのか…」と言って首を横に振った。
延世大政治外交学科を卒業し、生涯スポーツ外交に身を置いた金元委員長は「ソウルオリンピックを通じて韓国を世界に知らせ、国民の意識改革を成し遂げる契機となり、さらに平昌冬季オリンピックまで成功させれば、本当に文化大国、文化国民になるだろう」と強調した。
<インタビュー>平昌開会式場の建設に1億ドル…IOCと交渉、仮設建物で代替を(3)
「中央政府は福祉基金・国防費などの費用が多く、数千億ウォン、数兆ウォンを(平昌に)出すことはできない。また、アジア競技大会3回、ユニバーシアード3回、漕艇大会に射撃、F1の大会まで、地方政府が無分別に招致する大会ごとに企業が(費用を)出すこともできない。なら、マーケティングをしなければいけない。アイスホッケーとフィギュアスケートが人を最も多く集める種目だが、江陵(カンヌン)で競技をすれば観光客が来るだろうか」
--どんな方法があるのか。
「国内の分散開催を考えることができる。施設・放送インフラが整っているソウルでフィギュアスケート競技をすれば、世界から観光客が集まり、ブームが起き、マーケティングになる。地方の利害関係のために手放さないというのはいけない。時間がないといってもうまく交渉すればIOCも同意するだろう」
--南北関係がふさがっている。北朝鮮との分散開催議論をきっかけに対話ができるという主張もある。
「通信・ビジネス・出入国・宿舎・安全・輸送・放送衛星など実務的に北が国を開かなければいけない問題がある。しかしスポーツ交流を通じて対話の突破口を開くのは政治的には非常によいことだ。政府がそのようにするという意志があれば良いアイデアだと思う。実現のためにはまずIOCと十分に交渉し、IOCがOKしなければいけない」
平昌オリンピックと金元委員長の縁は妙だ。冬季オリンピック招致アイデアを出し、招致戦をして大会の招致に失敗したため、IOC副委員長職を手放さなければならなかった。平昌オリンピック招致妨害という批判を受けながらだ。
最初の招致戦があった2003年、政界は「金元委員長がIOC副委員長になるために平昌招致に消極的であり、結局、バンクーバーがつかんだ」とし、金元委員長に招致失敗の責任を転嫁した。2005年には世界テコンドー連盟など体育団体のトップとして在職し、団体の公金を横領したという容疑で拘束、起訴されたりもした。一連の事件で金元委員長は結局、すべてのスポーツ団体の肩書を手放して退いた。
--妨害波紋の真相は。
「私が副委員長をまたするために平昌招致を妨害したというが、話にならない。自分たちが失敗した責任を私にかぶせた。国連人権委員会の調査報告書が私を『平昌招致失敗に対する政治的な犠牲』と表現したほどだ」
--副委員長出馬が平昌招致にある程度の影響を与えたのではないのか。
「当時ソウルでは平昌が当然選ばれるとみられていたが、実際、バンクーバーと平昌は天と地の差だった。サマランチ当時IOC委員長が私に『バンクーバーはいけない。だから今回、3位ではなく2位にさえなればいい。第1副委員長を付けて4年後にまた推進すれば必ず大丈夫だから戦略を立ててほしい』と助言した。バンクーバーに3票差で落選したのは、それなりに私が動いて票が集まった結果だった」
--2007年にソチに敗れた時は招致活動をしなかったが。
「盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領とプーチン大統領がともに表決が行われたグアテマラに行った。私は慶応大訪問教授だったが、サマランチが電話をかけてきて『来るのか』と尋ねてきた。『行かなければいけないか』と尋ねると、『今回だめならまた責任をかぶることになるから来るな』と言われた。青瓦台から『来ないで電話・ファックスで運動をしてほしい』という要請を受けた」
--公金横領容疑で有罪判決を受けたのは過ちがあったのは。
「秘書4人の7年間の給料、7年分の新聞代、ファックス使用料、食事代が世界テコンドー連盟から出て、これが横領だとして私を起訴した。私のために平昌招致が失敗したと網をかけておいて、それを正当化しようとしたのだ。裁判中だった2005年5月、目の手術をし、セブランス病院に通っていたが、金正吉(キム・ジョンギル)体育会長が訪ねてきてIOC副委員長の辞表を書くように言われた。拘禁状態で書くのは国の体面をけがすため、仮釈放後に書く』と言ったが、だめだというので5月9日付で辞表を書いた」「その時に辞表を書いたことを後悔しているか」という質問には、「出さないためにもっと捕まえておくとすればどうするのか…」と言って首を横に振った。
延世大政治外交学科を卒業し、生涯スポーツ外交に身を置いた金元委員長は「ソウルオリンピックを通じて韓国を世界に知らせ、国民の意識改革を成し遂げる契機となり、さらに平昌冬季オリンピックまで成功させれば、本当に文化大国、文化国民になるだろう」と強調した。
<インタビュー>平昌開会式場の建設に1億ドル…IOCと交渉、仮設建物で代替を(3)
この記事を読んで…