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“15歳の舞踊の天才”崔承喜、慣れない東京舞台すらも狭かった

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

1926年10月3日、日本・東京の三越デパートの屋上で3人踊り『グロテスク』を踊る崔承喜(写真左側)。当時、15歳で踊りの留学で日本に渡ってから7カ月のことだ。(写真提供=踊り資料館「ヨンナクジェ」)

崔承喜

今回公開された動画の中の崔承喜(写真左側)の別の場面。1920年代のイメージ資料のうち最古の動画記録物として希少価値が高い。(写真提供=踊り資料館「ヨンナクジェ」)

動画の初めに出てくる字幕。『グロテスク』という作品の題名の横の出演者紹介で崔承喜の名前が確認できる。(写真提供=踊り資料館「ヨンナクジェ」)

20世紀前半に活動した新舞踊家の崔承喜(チェ・スンヒ、1911~67)の踊る姿を撮影した最古の動画が初めて発掘された。崔承喜が1926年10月3日に15歳で東京の三越デパートの屋上で公演した舞台記録映像で、韓国芸術総合学校のソン・キスク教授が21日、公開した。崔承喜の舞踊映像物としては最古の資料だ。

動画は3分余りのもので、「石井漠舞踊団」の女性3人踊り『グロテスク』を踊る崔承喜のあどけない姿が収められている。このころ崔承喜は、音楽家の夢を胸に抱き淑明(スクミョン)女学校に在学中の才能あふれる少女だった。26年3月、運命は彼女を踊りの世界へと導いた。日本近代舞踊の先駆者、石井漠(1887~1962)のソウル公演を見に行き、ひと目でこの“新舞踊の父”に魅了された。石井漠は欧州に留学した舞踊家の第1世代で、日本に初めて現代舞踊を持ち込んだ人物だった。日本人でありながら植民地人に対する民族的な差別意識を持っていなかった。当時、京城放送局に通っていた兄の崔承一(チェ・スンイル)の紹介と勧誘で石井漠に会った崔承喜はすぐに彼の門下生になって東京留学をした。『グロテスク』は崔承喜が日本に渡って舞踊界に入門して7カ月後の作品で、ほぼデビュー作だとみることができる。


この動画は、現在、静岡県島田市立図書館「清水文庫」の所蔵品だ。清水文庫は文化資料収集家だった清水真一(1889~1986)が寄贈したコレクションだ。『グロテスク』は清水文庫の中の「昭和初期の映像」という題名の映像物の中に収められていた。フィルム製造会社が製品説明会を兼ねて設けた撮影大会に石井漠舞踊団が招待公演を行った記録物という説明がつけられている。主催者は東京ベビシネマ倶楽部アサイクラブで、おそらくプロとアマチュア撮影者のための実演会的な性格だったものと思われる。


動画を発掘したソン・キスク教授は「崔承喜の舞踊映像のうち、最古の資料として希少価値が高い」と評価した。『グロテスク』に対し、ソン教授は「欧州で勉強した石井漠のロマンチックな遊戯性がよく表現されている作品で、日本伝統舞踊の祭儀的な律動性を加え、題名の通り奇異だが美しい感覚を持つ踊となっている」と説明した。半年で西欧の現代舞踊の振りつけを消化した崔承喜の天才的才能を証明する記録物だとの評も付け加えた。広く知られた独舞『セレナーデ』の前に踊られた群舞で、崔承喜の舞踊人生の初期を研究するための貴重な資料だ。

この作品で崔承喜は石井漠の妹である石井栄子ともう一人の舞踊家である石井欣子とともに力のある踊り動作を見せている。淑明女学校に在学中だった時に2つに分けて結んでいた長い髪は短いおかっぱ頭に変わり、“新しい女”の香りを立ちのぼらせていた。果敢で挑発的な短い舞踊衣装がよく似合う体格条件は、たった数カ月で主役舞踊家に抜てきされた彼女の生まれながらの踊り子気質を垣間見せている。日本の新聞が崔承喜を「日本舞踊界に現れたスター」と紹介するだけのことはある。このころ、崔承喜は一日11時間練習する“練習の虫”だったとの証言が残っている。

このようなしっかりした土台の上に、崔承喜は韓国の芸術と民族舞踊を研究して自身の代表作を完成させていった。パリに新しい帽子ファッションをもたらした『草笠童』、仏像のさまざまな姿勢を踊りに昇華させた『菩薩』 『石窟庵(ソックラム)の壁彫』、伝統剣舞に武士精神を取り入れた『双剣舞』など、彼女の新作はいつも話題をさらった。『グロテスク』は崔承喜の踊りが発芽した種だったといえる。

ソン教授はこの舞踊映像物を来年1月22日、踊り資料館「ヨンナクジェ」が主催する学術セミナーで公開する予定だ。当日、『グロテスク』とともに見つかった石井漠の『マスク』も共に上映される。02-741-2808。

◆崔承喜=日帝強制占領期間、米国や欧州、中南米で150回余りの公演を行った世界的な舞踊家。1911年ソウルに生まれ、音楽を勉強して26年に日本へ留学。29年に帰国した後、崔承喜舞踊研究所を設立して韓国に近現代舞踊の種をまいた。46年、夫の安漠について北朝鮮に渡り、その後平壌(ピョンヤン)で国立崔承喜舞踊研究学校を中心に活動し、67年粛清された。



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