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【コラム】法王はなぜ防弾チョッキを脱ぐのか=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
ベネディクト16世は法王に即位した翌年、トルコに行った。訪問2日前に2万人のムスリムがトルコで反対デモを行った。法王は上着の中に防弾チョッキを着た。防弾ガラスのついた法王儀式用の車両が心もとなくて、鋼鉄の特殊防弾車両を使った。法王の訪問地にはテロに備えた精鋭狙撃手や爆弾処理専門家、対テロ要員らが配置された。

今月訪韓するフランシスコ法王はこれを拒否した。「訪韓時に防弾車両を使ってほしい」と提案したところ法王庁の幹部聖職者はこのように答えたという。「それでは法王が韓国に行かないでしょう」。それだけフランシスコ法王の意思が確かだという意味だ。

いったい理由は何だろうか。フランシスコ法王は歴代のどの法王も成功させられなかったバチカン改革を試みているところだ。内部の敵が結構多い。またイタリアのマフィアに向けて破門を宣言した。暗殺の危険もある。それでも彼は保護膜をつくらない。防弾チョッキも防弾車両も拒否する。なぜだろうか。


多くの解釈がある。ある主教に尋ねたところ「年齢が78歳になる。その年齢で何が恐ろしいだろうか?」といい、またある神父は「辺境地で命をかけて働く神父や修道女もいるのに、どうしてご自身の命だけを守ることができようか」という。冷静に考えてみる。どうしてもそこには、さらに深い理由がありそうだ。

防弾。言葉どおり弾丸を防ぐことだ。弾丸とはいったい何なのか。銃口から飛んでくる金属の塊が弾丸だ。私たちの生活の中でも弾丸はいつでも飛んでくる。私たちはそれに当たり、血を流し、傷つき、痛みを感じる。それで誰もが防弾服を探す。もう少し安全に暮らせるようにと願う。そうしているうちに結局は悟ることになる。そんな人生は世の中のどこにもないことを。四方八方から飛んでくる弾丸を全て避けることはできないのだから。

私は再び尋ねる。キリスト教で防弾とは何か。弾丸を防ぐ本当の方法は何か。イエスはそれを、身をもって示した。私たちのやり方とは正反対だ。私たちは防弾チョッキを着て、その上にまた着込んで、さらにまた着込む。鈍くなった体でどこから飛んでくるかも知れない弾丸に震えながら。イエスのやり方は違う。彼は防弾チョッキを脱ぐ。1つ脱いで、さらにまた1つ脱ぐ。そうやって脱ぎ続けたのがまさに十字架だ。裸で十字架にぶらさがったイエスは、そこで自らの命まで脱いだ。

そんなイエスに向けて銃を撃ってみてほしい。イエスが果たして銃に撃たれただろうか。違う。彼は銃には撃たれない。十字架で自らの命まで差し出したイエスには「自分の意思」がないのだから。「父の意思」だけがある。それなのに、どうやってイエスに当てることができるだろう。「自分の意思」がないものは「私」でもないのに。

静かに考えてみてほしい。フランシスコ法王は隠れない。防弾のガラス、防弾の鉄甲を身にまとわない。むしろ防弾チョッキを脱ぎ、防弾車の外に出て行く。人々はそれを「特別だ」「勇気にあふれている」と話す。私の目にはそれが十字架に向けた歩みに見える。1つ脱いで、また脱いで、さらに脱いで十字架を探しにいく。皆がいなくなった場所、それこそが完全な防弾の場なのだから。人生から飛んでくるすべての弾丸から自由な場。

フランシスコ法王は「自らの心を打ち破りなさい」と強調する。「私」を守る防弾チョッキを打ち破れという言葉だ。防弾チョッキを破り、防弾ガラスを割り、防弾車を破る時、私たちは十字架に出会うからだ。もしかしたらマフィアが法王を生半可に触ることができないのも、彼がむしろチョッキを脱いでしまうためではないだろうか。それこそが弾丸が届かない場所なのだから。

ペク・ソンホ文化スポーツ部門次長



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