朴槿恵(パク・クネ)大統領の「統一大チャンス論」がドイツ統一に対する関心を再び高めている時期、ドイツから多数の統一関係者が韓国を訪れた。9-11日に梨花女子大学が主管し、中央日報がメディアパートナーとして参加した第13回韓独フォーラムのドイツ側出席者は、韓半島(朝鮮半島)問題に具体的な関心と知識を持つ“特別な人たち”だった。当然、討議の成果は豊かなものだった。韓独フォーラムのドイツ側委員長であるハルトムート・コシク連邦下院議員(55)に会い、ドイツ統一の内部事情と韓国がそこで何を学ぶべきかを尋ねた。
金永熙論説委員=1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊した日、コシク議員はどこで何をしたのか。
コシク議員=当時の西ドイツの首都ボンにいたが、連邦下院議員の友人が「すぐにテレビを見てほしい」と電話をしてきた。急いでテレビをつけたところ、東ドイツ社会統一党(SED)政治局員のギュンター・シャボウスキーが東ドイツの住民の海外旅行自由化措置を発表し、すぐにベルリンの壁が開かれる場面が出てきた。
金=3月に朴槿恵大統領がドイツを訪問し、メルケル首相に会って「統一大チャンス論」を話すと、メルケル首相がドイツの統一も幸運(Glcksfall)だと話し、韓国で話題になった。ドイツ統一が幸運だったら、東ドイツ住民の市民革命は立場を失うのでは。
コシク=メルケル首相がそのような表現を使ったのは、決して東ドイツ市民の勇気と自由と民主主義への熱望を過小評価するものではない。歴史的な流れで見ると、当時は国際情勢がドイツ統一に有利に動いた。ミハイル・ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長とジョージ・ブッシュ米大統領ともにドイツ統一に賛成したし、懐疑的な見方をしていた周辺国も態度を変えた。歴史的な意味で当時の欧州情勢がドイツ統一を可能にしたということで、幸運と話したのだ。
金=75年のヘルシンキプロセス、80年代のポーランドの自由労組(Solidarity)革命、85年のゴルバチョフ執権と新思考外交のようなものが、ドイツ統一の土台になったのか。
コシク=そうだ。それは一種のモザイクでありパズルのようなもの、一つ一つのモザイク、パズルのピースがぴったりと合った。
金=東方政策の設計者である社民党(SPD)のエゴン・バールは、ドイツ統一の3大功労者として、初代首相のコンラート・アデナウアー、統一首相のヘルムート・コール、東方政策の推進者ウィリー・ブラントを挙げた。印象的だ。韓国では相手政党の業績をほとんど評価しない。ブラントとコールの役割は分かるが、アデナウアーはどんな寄与をしたのか。
コシク=フランス、イスラエルのような国々と積極的な和解政策を繰り広げ、後の東方政策の軌道を作った。NATO(北大西洋条約機構)に加盟したのも、ドイツに対する隣国の信頼回復に決定的に寄与した。そのような西側政策がなければ、東方政策が統一に結実するにははるかに長い時間がかかったはずだ。
金=実際、東方政策は新しい概念ではなかった。ブラントも認めた。ヒトラーの東欧侵攻も東方政策という名前をつけていた。ヒトラーに汚された東方政策という名前に拒否反応はなかったのか。
コシク=当初はブラントとエゴン・バールも東方政策を新東方政策と呼んだ。核心は「接近を通した変化」だった。それは東ドイツを含むワルシャワ条約国家との接近の意志を見せたものだ。
金=ドイツ統一後、一部の旧東ドイツの人たちが統一後の状況に失望したいわゆるオスタルギー(Ostalgie)現象というものがあった。これは韓国には参考になる。南北が統一すれば、統一前の北朝鮮の住民が統一の結果に失望し、北朝鮮時代を懐かしがるようなことがなければならない。旧東ドイツの人はなぜ失望したのか。
コシク=旧東ドイツの住民の大半は統一に満足している。ただ、東ドイツの人たちは自分たちも統一に大きく寄与したことを知ってほしいということだ。統一に失望した人たちはほとんど、統一過程で変化した経済システムに適応できなかった人たちだ。主に高齢層であり、失業者が多かった。新しい労働市場で仕事を探せず、自らルーザー(敗北者)と考えた。したがって私は開城(ケソン)工業団地に注目している。分断当時、ドイツには開城工業団地のようなものがなかった。北朝鮮の人々は統一する前に、世界経済の競争体制に合わせて働くことが何かを学習する機会を持った。私は北朝鮮側で開城工業団地を訪問する機会があったが、当時私が確信したのは、開城工業団地で働く北朝鮮人の一人一人が革命的な変化を経験するということだった。韓国の体制の優越性と人間的な環境の経験だ。産業化された韓国社会との接触が、その人たちに革命的な変化を与えるということを確信した。
独議員「開城で働く北朝鮮人の一人一人が革命的変化を経験」(2)
独議員「開城で働く北朝鮮人の一人一人が革命的変化を経験」(3)
金永熙論説委員=1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊した日、コシク議員はどこで何をしたのか。
コシク議員=当時の西ドイツの首都ボンにいたが、連邦下院議員の友人が「すぐにテレビを見てほしい」と電話をしてきた。急いでテレビをつけたところ、東ドイツ社会統一党(SED)政治局員のギュンター・シャボウスキーが東ドイツの住民の海外旅行自由化措置を発表し、すぐにベルリンの壁が開かれる場面が出てきた。
金=3月に朴槿恵大統領がドイツを訪問し、メルケル首相に会って「統一大チャンス論」を話すと、メルケル首相がドイツの統一も幸運(Glcksfall)だと話し、韓国で話題になった。ドイツ統一が幸運だったら、東ドイツ住民の市民革命は立場を失うのでは。
コシク=メルケル首相がそのような表現を使ったのは、決して東ドイツ市民の勇気と自由と民主主義への熱望を過小評価するものではない。歴史的な流れで見ると、当時は国際情勢がドイツ統一に有利に動いた。ミハイル・ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長とジョージ・ブッシュ米大統領ともにドイツ統一に賛成したし、懐疑的な見方をしていた周辺国も態度を変えた。歴史的な意味で当時の欧州情勢がドイツ統一を可能にしたということで、幸運と話したのだ。
金=75年のヘルシンキプロセス、80年代のポーランドの自由労組(Solidarity)革命、85年のゴルバチョフ執権と新思考外交のようなものが、ドイツ統一の土台になったのか。
コシク=そうだ。それは一種のモザイクでありパズルのようなもの、一つ一つのモザイク、パズルのピースがぴったりと合った。
金=東方政策の設計者である社民党(SPD)のエゴン・バールは、ドイツ統一の3大功労者として、初代首相のコンラート・アデナウアー、統一首相のヘルムート・コール、東方政策の推進者ウィリー・ブラントを挙げた。印象的だ。韓国では相手政党の業績をほとんど評価しない。ブラントとコールの役割は分かるが、アデナウアーはどんな寄与をしたのか。
コシク=フランス、イスラエルのような国々と積極的な和解政策を繰り広げ、後の東方政策の軌道を作った。NATO(北大西洋条約機構)に加盟したのも、ドイツに対する隣国の信頼回復に決定的に寄与した。そのような西側政策がなければ、東方政策が統一に結実するにははるかに長い時間がかかったはずだ。
金=実際、東方政策は新しい概念ではなかった。ブラントも認めた。ヒトラーの東欧侵攻も東方政策という名前をつけていた。ヒトラーに汚された東方政策という名前に拒否反応はなかったのか。
コシク=当初はブラントとエゴン・バールも東方政策を新東方政策と呼んだ。核心は「接近を通した変化」だった。それは東ドイツを含むワルシャワ条約国家との接近の意志を見せたものだ。
金=ドイツ統一後、一部の旧東ドイツの人たちが統一後の状況に失望したいわゆるオスタルギー(Ostalgie)現象というものがあった。これは韓国には参考になる。南北が統一すれば、統一前の北朝鮮の住民が統一の結果に失望し、北朝鮮時代を懐かしがるようなことがなければならない。旧東ドイツの人はなぜ失望したのか。
コシク=旧東ドイツの住民の大半は統一に満足している。ただ、東ドイツの人たちは自分たちも統一に大きく寄与したことを知ってほしいということだ。統一に失望した人たちはほとんど、統一過程で変化した経済システムに適応できなかった人たちだ。主に高齢層であり、失業者が多かった。新しい労働市場で仕事を探せず、自らルーザー(敗北者)と考えた。したがって私は開城(ケソン)工業団地に注目している。分断当時、ドイツには開城工業団地のようなものがなかった。北朝鮮の人々は統一する前に、世界経済の競争体制に合わせて働くことが何かを学習する機会を持った。私は北朝鮮側で開城工業団地を訪問する機会があったが、当時私が確信したのは、開城工業団地で働く北朝鮮人の一人一人が革命的な変化を経験するということだった。韓国の体制の優越性と人間的な環境の経験だ。産業化された韓国社会との接触が、その人たちに革命的な変化を与えるということを確信した。
独議員「開城で働く北朝鮮人の一人一人が革命的変化を経験」(2)
独議員「開城で働く北朝鮮人の一人一人が革命的変化を経験」(3)
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