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「2階建て韓屋」生かし、街も再生=韓国(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

4日ソウル仁寺洞(インサドン)の「寛勲斎(クァンフンジェ)」で、北村(プクチョン)HRCのキム・ジャングォン代表が2階建て韓屋について説明している。寛勲斎は伝統的な低い木の欄干を使う代わりに、ガラスの欄干を重ねて法的基準(欄干の高さ1.2メートル)に合わせ、あちこちに“豊かさ”や“多福”を願う亀やブドウを彫刻した。

今月4日、ソウル仁寺洞(インサドン)の通り。サムジ通りの入口直前に左に行く路地に沿って行けば、韓屋(ハノク、韓国式家屋)一戸が現れる。よく見られる単層の韓国式家屋ではない2階建ての家なので目を引く。

2年前、100年余りぶりに初めてソウルの四大門の中に新築された2階建て韓屋「寛勲斎(クァンフンジェ)」だ。ソウル市に登録された最初の2階建て韓国式家屋でもある。

敷地面積は109平方メートル(33坪)。マダン(広場)があるべき韓屋を建てるには狭く、2階に上げようとすれば見るに危ない。北村HRCのキム・ジャングォン代表(51)は「小さな広場である“中庭”から答えを探した」と説明した。1階よりも2歩高く、2階よりは7歩低くて安定的に2階を繋いてくれる。上から見ると「⊂」の字の形なので、韓屋特有の峰に似た屋根のラインも生かした。雲峴宮(ウニョングン)で雨水を受けるために設置した「木のひさし」を付け、採光のために屋根の一部を強化ガラスにした点も印象的だ。


「この建物を作って3年間、2階建て韓屋だけをさらに10軒余り建てた。その中には寛勲斎2階にある喫茶店“木響”に立ち寄って韓屋を建てたいと訪ねてきたお客さんもいた」。

キム代表は、韓屋だけを15年手がけてきた「韓屋建築の専門家」だ。韓屋を一戸作るには半年から2年もかかるが、こうして建てた韓屋が200軒を超える。韓屋は、文化財の復元や坪あたり3000万ウォン近い最高級単層住宅に限定されているのが現実だ。だがキム代表は「商業用途で使われる重層の韓屋こそ、今後10年間の新しい成長動力」と話す“韓屋実学者”でもある。

100年以上も韓国建築の歴史から消えていた2階建て韓屋も、そのような哲学を基にした作品だ。高麗時代から商業用や門楼として広く建てられた2階建て韓屋は、韓国戦争(朝鮮戦争)でほとんどが消失し、上層の暖房が不可能だという特性のために新築もされなかった。キム代表は「ソウルのように地価が高くて狭い都心では、重層の韓屋の長所が大きい」として「暖房する1階は住居層、2階は書斎のような生活施設や工房・作業室としてよく活用される」と話した。

最初から韓屋の建築家になろうとしたのではなかった。キム代表は実際は大学で経済学を専攻した後、20代を父親の貿易会社ですごした。事業手腕がある方なので、早くからコンピューター会社やインテリア会社を買収した。建築との縁は、インテリア会社を直接運営しながら始まった。

彼は「仕事はおもしろかったが1カ月単位で短く回る工事期間がストレスだった」と振り返る。それで視線を転じた先が建物1つに半年は充分にかかる建築事務所だ。初めは通常の事務所のように「RC組み」と呼ばれる鉄筋コンクリート建物を主に手がけていた。作業用安全帽をかぶって現場監督にノートを作って送って3年目になるころに通貨危機が訪れた。建築企業が相次ぎ倒産する中で、韓屋に目を向けた。

彼は「参入の障壁は高いが、いったん場を得られれば機会が多いと判断した」と説明した。結果は成功だった。2000年代初期から政府と各地方自治体の「韓屋の活性化政策」が始まった。“ウェルビーイング(well-being)”傾向とかみ合って吹き始めた韓屋の風は、朝鮮時代の豊かな村として韓屋の命脈を受け継いできた北村を始め、近隣の苑西洞(ウォンソドン)や桂洞(ケドン)・仁寺洞まで広がった。キム代表は「最近ではソウル恩平区(ウンピョング)や京畿道板橋(キョンギド・パンギョ)のような宅地でも韓屋を新築している」として「今は済扶島(チェブド)に韓屋の美術館を建てるほど全国のあちこちで需要が増えているのを体感している」と話した。以前とは違い、古建築を手がける建築家も増えている傾向だ。キム代表は「私たちの事務所だけでも5人の社員がいて、初めて選ぶ時は競争率が100倍に達した」と明らかにした。



「2階建て韓屋」生かし、街も再生=韓国(2)

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