「父がいた光復軍旧跡に記念碑が建てられて公園ができるとは、本当に嬉しいことですよ。そこで清掃員でもしながら余生を過ごしたいです」。中国山西省西安郊外の杜曲鎮にある光復軍駐屯地に今月下旬、記念碑が建てられるというニュースを誰よりも歓迎している人がいる。駐屯地旧跡と路地一つ挟んだ村に住んでいる趙生林(68)さんだ。幼いころに中国人の家庭に養子に入って中国人として育ったが、彼は祖国解放のために異国の地で若き日を捧げた光復軍の子孫だ。
1942年から杜曲鎮に駐留した光復軍第2支隊は、青山里(チョサンリ)戦闘の英雄イ・ポムソク将軍が指揮した光復軍の主力部隊だった。イ将軍は、部下の精鋭要員50人に近隣の村である太乙宮で米軍戦略情報部隊(OSS)の教官から射撃・爆破・渡江などの特殊訓練を受けさせた。趙生林さんの父もこの訓練と関係のある人物であるようだ。彼は「父親は毎日、軍服姿で遠く太乙宮まで行って夕方に帰ってきたりしていたという話を後で村の老人から伝え聞いた」と言って、この地方の行政当局が住民から集めた口述記録などを見せてくれた。
光復軍は45年、国内進攻作戦を準備している間に解放を迎え、隊員は翌年には個人の資格で帰国することになる。趙生林さんが生まれたのもこの頃だと推定されている。「ある光復軍隊員が双子を授かったが、おそらく子供2人を育てる余裕がなかったのでしょう。燃料供給などで光復軍部隊に出入りしていた中国人の紹介で、2人のうちの1人の子供を出生3日後に中国人に養子として送り出しました。その子供が今、このように年を取りました」。
中国人とした育った趙生林さんは10代後半になって初めて「出生の秘密」を知ったという。「人民解放軍(中国軍)に志願書を出す時、初めて私を育ててくれた母親が生みの母ではなく、私は韓国人の子孫だと話してくれたのです」。少なからず衝撃を受けて、実の父母が誰なのか気になったりもしたが、当時は国交さえなくて韓国人の両親を探す気にもなれなかった時代だった。歳月が流れて90年代後半、光復軍第2支隊出身の金俊燁(キム・ジュンヨプ)元高麗(コリョ)大学総長が杜曲鎮に立ち寄ったという便りを後で聞いて、電話と手紙で連絡を取った。もしも実父についての糸口でも探せるかと思ったからだが、成果はなかった。
「父親はすでに亡くなったものと考えられます。だが光復軍駐屯地に記念碑と記念閣が建てられれば多くの韓国人が訪ねてくるでしょう。ひょっとしてその中に私の親戚でもいたら、ぜひ一度は会ってみたいというのが最後の夢です」。
1942年から杜曲鎮に駐留した光復軍第2支隊は、青山里(チョサンリ)戦闘の英雄イ・ポムソク将軍が指揮した光復軍の主力部隊だった。イ将軍は、部下の精鋭要員50人に近隣の村である太乙宮で米軍戦略情報部隊(OSS)の教官から射撃・爆破・渡江などの特殊訓練を受けさせた。趙生林さんの父もこの訓練と関係のある人物であるようだ。彼は「父親は毎日、軍服姿で遠く太乙宮まで行って夕方に帰ってきたりしていたという話を後で村の老人から伝え聞いた」と言って、この地方の行政当局が住民から集めた口述記録などを見せてくれた。
光復軍は45年、国内進攻作戦を準備している間に解放を迎え、隊員は翌年には個人の資格で帰国することになる。趙生林さんが生まれたのもこの頃だと推定されている。「ある光復軍隊員が双子を授かったが、おそらく子供2人を育てる余裕がなかったのでしょう。燃料供給などで光復軍部隊に出入りしていた中国人の紹介で、2人のうちの1人の子供を出生3日後に中国人に養子として送り出しました。その子供が今、このように年を取りました」。
中国人とした育った趙生林さんは10代後半になって初めて「出生の秘密」を知ったという。「人民解放軍(中国軍)に志願書を出す時、初めて私を育ててくれた母親が生みの母ではなく、私は韓国人の子孫だと話してくれたのです」。少なからず衝撃を受けて、実の父母が誰なのか気になったりもしたが、当時は国交さえなくて韓国人の両親を探す気にもなれなかった時代だった。歳月が流れて90年代後半、光復軍第2支隊出身の金俊燁(キム・ジュンヨプ)元高麗(コリョ)大学総長が杜曲鎮に立ち寄ったという便りを後で聞いて、電話と手紙で連絡を取った。もしも実父についての糸口でも探せるかと思ったからだが、成果はなかった。
「父親はすでに亡くなったものと考えられます。だが光復軍駐屯地に記念碑と記念閣が建てられれば多くの韓国人が訪ねてくるでしょう。ひょっとしてその中に私の親戚でもいたら、ぜひ一度は会ってみたいというのが最後の夢です」。
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