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孫基禎の優勝の瞬間、ドイツ放送は「韓国人学生」と呼んだ(1)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版

孫基禎(ソン・キジョン)が授賞台で月桂冠をかぶって頭を下げている姿(1)。当時のマラソン競技区間と統制所および給水台の位置(2)。孫基禎が看護師から渡された水を飲んだり(3)、日本人関係者から渡された水を飲む姿(4)。

11月15日はマラソンの英雄、孫基禎(ソン・キジョン)の命日だ。2002年に亡くなったから、いつのまにか11年目だ。彼は韓国人で最初のオリンピック金メダリストだ。2013年現在までオリンピック男子マラソンにおいて日本の唯一の優勝者でもある。彼の業績は1936年ベルリンオリンピック マラソン競技で2時間30分の壁を破ってオリンピック新記録を樹立して金メダルを獲得したのだ。これは日本の帝国主義の強占統治のもとに置かれた同胞の鬱憤を晴らす一方、民族意識を新たに鼓吹させたという意味もある。

「歴史的人物」孫基禎は多くの著述家や研究者から注目を浴びてきた。多くのテーマは孫基禎の歴史的意味と民族意識、日章旗抹消事件など主に人文・社会学的な検討と評価に集中した。「マラソン選手」孫基禎についての研究はなかった。

2012年7月、筆者はベルリンに飛んだ。マラソン競技区間を実態調査してスポーツ博物館とオリンピック主競技場(Olympiastadion)などを訪問した。収集した資料を1年余りかけて分析・総合して最近「韓国体育史学会誌」に「孫基禎のベルリンオリンピックマラソン競技内容の研究」という論文を発表した。


1.その日ベルリンは快晴で快適だった

多くの国内文献はマラソン競技が開かれた1936年8月9日、ベルリンが『30度を超える高温』で湿度が高かったと記録していた。しかしベルリンオリンピックの公式記録は違う。気温は試合が始まった午後3時頃は22.8度、終わった時は21.0度であり、空は晴れて空気は乾燥していた。30度は真夏の猛暑を象徴する温度だ。マラソン競技が苛酷な暑さの中で行われたという前提は、孫基禎の英雄のイメージを強化して彼がおさめた勝利の意義を強固にするために寄与しただろう。孫基禎がおさめた勝利はそのまま韓民族がおさめた勝利と一緒だからだ。

2.存在しないビスマルクの丘

ベルリンオリンピックのマラソンコースは海抜31.6~80メートルにまたがる。最も高いところは出発後4.7~8キロ、折返し点を戻る道の33.2~34.2キロ地点。約35キロ地点に「カイザーヴィルヘルムトゥーン」がそびえ立っている。ここから海抜33メートル地点まで走り出すと40キロ地点に最後の登り坂、「グローケントゥーンシュトラッセ」が出てくる。色々な文献には「ビスマルクの丘」が登場する。孫基禎が苦しげに走った区間だ。しかし公式記録集には「ビスマルク」という地名はない。ウィルヘルム1世皇帝とビスマルクの彫刻で飾られたカイザーヴィルヘルムトゥームのイメージが、架空の地名を作ったのかもしれない。日本選手団だけで通用した地名かもしれない。カイザーヴィルヘルムトゥーンの周辺あるいはグローケントゥーンシュトラッセだろう。

3.美談と談合の間、ハファの忠告

競技序盤に英国のアーネスト・ハファ選手が孫基禎に「スロー、スロー、セーブ、セーブ」と話してペースを上げないよう忠告したというエピソードはさまざまなパンフレットに美談として登場する。しかしハファの行動は、非紳士的な談合の試みと解釈される余地もあるのが事実だ。孫基禎もハファの忠告ないし提案をいぶかしいと思っただけでなく警戒しながら走った。孫基禎は28~31キロ区間でサバラを抜いてハファまで締め出した。彼は他の選手に追い越されるかも知れないという恐怖感に苦しめられ、ハファだけでなく後半に強い南昇竜(ナム・スンリョン)も非常に警戒した。

(中央SUNDAY第348号)



孫基禎の優勝の瞬間、ドイツ放送は「韓国人学生」と呼んだ(2)

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