秋空が冷えるように澄んだ季節だ。特に徳寿宮(トクスグン)の石垣の道で見る韓国の秋は十分に名品だ。何日か前、友人から徳寿宮の重明殿(チュンミョンジョン)で会おうというメッセージがきた。韓国の秋ではなく韓国の歴史の現場を見たいという在日同胞がおり、彼とともに見て回ろうという提案だった。1897年に立てられた西洋式建物である重明殿は徳寿宮の中ではなく石垣の裏、貞洞(チョンドン)キルから右に入った小さな路地の中にある。
赤れんが作りの建物は生きた歴史の現場だ。1905年11月18日午前1時、恥辱の乙巳条約が不法・強制的に結ばれた場所だ(締結日は17日)。当時ここに滞在していた高宗(コジョン)皇帝と大臣たちを日帝が軍隊を動員して脅迫し大韓帝国の外交権を奪い統監府を設置して保護国にしたのだ。その後1907年に高宗はここで密旨を下しハーグ万国平和会議に密使を派遣した。高宗の息づかいが生きている大韓帝国の運命が分かれた歴史的な場所だ。当時は徳寿宮後方にあったがその後日帝によって宮が分割縮小され切り離されることになったという。さまざまな面で国権喪失の象徴だ。
問題は歴史の現場を扱うお粗末さだった。道の入口の木に掛けられた「重明殿」という表示はあったが「乙巳条約の現場」という案内は見られなかった。正門にきてようやく小さな説明文が見えるだけだった。重明殿を見て回ったがちょうど文化遺産踏査に出た団体訪問客が入ってきた。ガイドの説明にあちこちでうめき声が出てきた。ため息をつく人もいた。「この前にある飲食店には数十回も来たがすぐ近くに重明殿という所があり、ここで乙巳条約が強制的に結ばれたのは知らなかった。だれも教えてくる人がいなかったので」「『外交権を喪失した乙巳条約1905年』『国を失った庚戌国恥1910年』と数学の公式を習うように歴史を習ったからだ」。
それだけだろうか。文化財庁のサイトに入り「重明殿」と打ってみてもほとんど違いはなかった。建物全体が白く塗られた「時代不明」の重明殿の写真が上がっていた。「重明殿に対する詳しい問い合わせは徳寿宮管理所(02-771-9952)にお願いします」という案内が突拍子もなかった。
いま韓国史教育をめぐり甲論乙駁が激しい。修能必修課目にすることから教科書の偏向性までぞろぞろと論争だ。だが、中学高校で生徒らに教科書を持って入試教育をすることだけが韓国史の教育ではないだろう。国民に韓国の歴史を生き生きと教え韓国人のアイデンティティを呼び起こすという韓国史教育の本来の目的は後まわしにされた気分だ。すぐそばにある歴史の痕跡から見る、全国民のための生きた韓国史の勉強が必要な時点ではないか。自分の町内の史跡から見ていかなければならない。
チェ・インテク論説委員
赤れんが作りの建物は生きた歴史の現場だ。1905年11月18日午前1時、恥辱の乙巳条約が不法・強制的に結ばれた場所だ(締結日は17日)。当時ここに滞在していた高宗(コジョン)皇帝と大臣たちを日帝が軍隊を動員して脅迫し大韓帝国の外交権を奪い統監府を設置して保護国にしたのだ。その後1907年に高宗はここで密旨を下しハーグ万国平和会議に密使を派遣した。高宗の息づかいが生きている大韓帝国の運命が分かれた歴史的な場所だ。当時は徳寿宮後方にあったがその後日帝によって宮が分割縮小され切り離されることになったという。さまざまな面で国権喪失の象徴だ。
問題は歴史の現場を扱うお粗末さだった。道の入口の木に掛けられた「重明殿」という表示はあったが「乙巳条約の現場」という案内は見られなかった。正門にきてようやく小さな説明文が見えるだけだった。重明殿を見て回ったがちょうど文化遺産踏査に出た団体訪問客が入ってきた。ガイドの説明にあちこちでうめき声が出てきた。ため息をつく人もいた。「この前にある飲食店には数十回も来たがすぐ近くに重明殿という所があり、ここで乙巳条約が強制的に結ばれたのは知らなかった。だれも教えてくる人がいなかったので」「『外交権を喪失した乙巳条約1905年』『国を失った庚戌国恥1910年』と数学の公式を習うように歴史を習ったからだ」。
それだけだろうか。文化財庁のサイトに入り「重明殿」と打ってみてもほとんど違いはなかった。建物全体が白く塗られた「時代不明」の重明殿の写真が上がっていた。「重明殿に対する詳しい問い合わせは徳寿宮管理所(02-771-9952)にお願いします」という案内が突拍子もなかった。
いま韓国史教育をめぐり甲論乙駁が激しい。修能必修課目にすることから教科書の偏向性までぞろぞろと論争だ。だが、中学高校で生徒らに教科書を持って入試教育をすることだけが韓国史の教育ではないだろう。国民に韓国の歴史を生き生きと教え韓国人のアイデンティティを呼び起こすという韓国史教育の本来の目的は後まわしにされた気分だ。すぐそばにある歴史の痕跡から見る、全国民のための生きた韓国史の勉強が必要な時点ではないか。自分の町内の史跡から見ていかなければならない。
チェ・インテク論説委員
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