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【コラム】「文学の国」韓国、遠のいた文学をもう一度(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
10年ほど前、米西海岸にあるサリナスという小さな村を訪問した。20世紀前半の米国資本主義の矛盾を暴いたジョン・スタインベックの足跡をたどる道、限りなく平原が広がる風景は、作家が描写した1920年代のそれとほとんど変わっていないように思えた。伝統的な果実の木に加え、ブルーベリー、ピスタチオのような新種が入り、白人労働者が南米移住者に入れ替わっただけだ。村で会った青年は作家の存在を知らなかったが、雑貨屋の高齢女性は親切に記念館の位置を教えてくれた。東洋人がそれをなぜ知っているのかと不思議そうにしながらだ。ピュリッツァー賞(1939年)とノーベル文学賞(1962年)を受賞した作家が悟らせてくれたその精神、「神聖な労働」に対する自負心で、生涯その小さな店を守ってきたのだろう。

文学賞よりさらに貴重なものは、拠り所がない平凡な庶民の厳しい旅程の道標となった作家の灯火のような言語とその言語が表した温かい空間だ。私たちにこういうものがあるだろうか。ノーベル文学賞に遠い国の作家が選ばれたというニュースに、内心の期待をたたんだ人は多かっただろう。世界の人が欽慕する文学賞が20世紀の経済寵児の韓国に文化勲章でも付けてくれることを待ちこがれていたかもしれない。文学は魂と現実がせめぎ合う戦いの記録だが、本は遠く、町中の本屋は姿を消し、書店に入っても文学コーナーを遠ざける。啓発書とトレンド書籍が占める国、それで専業作家が飢え、名門大学に作家志望生を探せない国で、文学は死んでいき、作家は芸術魂を失う。

春川の湖畔「文学公園」の真ん中に置かれた空席の石板にはこのように書かれている。「ノーベル文学賞の受賞者を待ちます」。ところが自分の胸像が空席に載せられるのを生前に目撃する人が現れるだろうか。ノーベル文学賞が精神的な高さの唯一の尺度ということでないが、それを望む前に文学をどこに捨ててきたのかを点検するのが先だ。


「文学の国」韓国で文学はかなり以前に死んでいる。力がある作家と傑出した作品が出現しないからではなく、文学が繁盛する環境と伝統を私たち自らが踏みにじったからだ。ありふれた現実も省察と観照で作った言語の家に宿れば、新しい服に着替える。高尚な人は修心正気のために文を書くことを日常化し、庶民は古典小説とパンソリの節を暗唱した。ところが今日、私たちは小説、詩、戯曲から精神の糧を得ているだろうか。または「文学韓国」をつくる若い世代は植民地時代はともかく、1960年代、70年代の作家が時代との不和をどのように繕ってきたか知っているのだろうか。



【コラム】「文学の国」韓国、遠のいた文学をもう一度(2)

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