東アフリカ、エチオピアの北部都市メケレ郊外にある農村アディスアレム。人口500人のこの小さな村では工事が真っ最中だ。大人たちが村の会館の周囲に石壁を積む間、子供たちは広場の石を選んでいた。何がそんなにおもしろいのか、笑い声が絶えなかった。この村では昨年8月、慶北(キョンブク)道庁が派遣した韓国人団員5人が韓国のセマウル運動を伝授している。生活が苦しい30世帯余りにニワトリを15羽ずつ貸し出して卵を売るようにした。水が大事なこの村に共同ポンプを設置し、婦女会・青年会を組織して自立基盤を整えている。イ・ヨンウチーム長は「エチオピア平均(2012年基準513ドル)の半分にも満たないこの村を、エチオピアで最も良く暮らせる地域にするのが目標」と話した。
エチオピア援助は、韓国国際協力団(KOICA)が2010年に韓国戦争参戦国のうちフィリピン・コロンビア・エチオピアを“報恩の援助”対象国に指定して盛んになった。KOICAと慶北道庁はアディスアレムと共に5カ所のエチオピア農村を支援している。
イ・ビョンファKOICAエチオピア事務所長は「エチオピアは自国軍の韓国戦争参戦に誇りを持っていて、戦争の灰から先進国の仲間入りを果たした韓国をモデルとして経済発展に挑んでいる」と説明した。
首都アディスアベバにある韓国公園内の参戦勇士協会で会った老兵は、参戦を誇らしく思っていた。少尉として参戦したメレセ・テセマ参戦勇士協会長(84)は「韓国戦争当時、3518人の最精鋭の皇室近衛隊将兵を派遣したエチオピアは、253回の戦闘で全て勝った」と話した。「121人のエチオピア将兵が戦死して、536人が負傷したが行方不明者や戦争捕虜が1人もいない空前絶後の記録を立てた」ということだ。
派兵を決めた当時のハイレ・セラシエ皇帝は、派兵部隊に“カニュ”という名前をつけた。エチオピア公用語であるアムハラ語で“混沌から秩序を確立する”という意味だ。カニュ部隊は江原道(カンウォンド)の春川(チュンチョン)・華川(ファチョン)などの地で中国共産軍の波状攻撃を防いだ。国連軍総司令部は1952年6月にカニュ部隊長へ送った書簡で「国連軍の皆がカニュ部隊将兵を尊敬し称賛している」と書いた。
韓国政府や民間でもカニュ部隊の犠牲に恩返ししている。韓国政府は生存した参戦勇士300人余りに毎月5万ウォンほどの栄誉金を送っている。KOICAは昨年と今年、参戦勇士の子孫300人を韓国に招待して電機電子・自動車・配管など技術教育を8カ月過程で実施している。アディスアベバ市内の参戦勇士村内にヒブレット・ピレ小学校を建て、教師たちを韓国小学校に招いて見学させて韓国人の数学教師を派遣した。
民間では名声(ミョンソン)教会がアディスアベバに建てた名声キリスト病院が好評を得ている。現地の人たちが“韓国病院”と呼ぶこの病院は、エチオピア最高の現代式施設と装備を備えている。キム・ソンファン名声教会堂会長が1993年にエチオピアを訪問した際、凄惨な現実を見て設立を決心し2004年11月に開院した。この病院はエチオピア将兵の犠牲に報いるために参戦勇士は無料診療し、その家族は半額割引する。また病院付設医科大学に毎年、参戦勇士の子孫2人を選んで全額奨学金を与えている。
祖父が韓国戦争に参戦した勇士であり全額奨学金を受けて昨年9月に医大に入学したチャルギダン・モグスさんは「医大に通うには1年で授業料2000ドルを出さなければいけないので奨学金がなければ家庭の事情で医大進学は夢見ることも出来なかったこと」としながら「医大を卒業したら故郷の農村で貧しい人々を治療する医師になりたい」と話した。参戦勇士の孫娘で医大生になったブルック・イングラさんも「医師がとても不足しているエチオピアで小児科医になって、病気の子供たちを助けたい」として「韓国が貧しい国から金持ちの国になったように、エチオピアが発展国になる一助となりたい」と抱負を明らかにした。
キム・ジョングン在エチオピア大使は「名声キリスト病院は、援助資金が相対的に少ない韓国が援助の選択と集中をどのようにすべきか見せる良い事例だ」と話した。
エチオピア援助は、韓国国際協力団(KOICA)が2010年に韓国戦争参戦国のうちフィリピン・コロンビア・エチオピアを“報恩の援助”対象国に指定して盛んになった。KOICAと慶北道庁はアディスアレムと共に5カ所のエチオピア農村を支援している。
イ・ビョンファKOICAエチオピア事務所長は「エチオピアは自国軍の韓国戦争参戦に誇りを持っていて、戦争の灰から先進国の仲間入りを果たした韓国をモデルとして経済発展に挑んでいる」と説明した。
首都アディスアベバにある韓国公園内の参戦勇士協会で会った老兵は、参戦を誇らしく思っていた。少尉として参戦したメレセ・テセマ参戦勇士協会長(84)は「韓国戦争当時、3518人の最精鋭の皇室近衛隊将兵を派遣したエチオピアは、253回の戦闘で全て勝った」と話した。「121人のエチオピア将兵が戦死して、536人が負傷したが行方不明者や戦争捕虜が1人もいない空前絶後の記録を立てた」ということだ。
派兵を決めた当時のハイレ・セラシエ皇帝は、派兵部隊に“カニュ”という名前をつけた。エチオピア公用語であるアムハラ語で“混沌から秩序を確立する”という意味だ。カニュ部隊は江原道(カンウォンド)の春川(チュンチョン)・華川(ファチョン)などの地で中国共産軍の波状攻撃を防いだ。国連軍総司令部は1952年6月にカニュ部隊長へ送った書簡で「国連軍の皆がカニュ部隊将兵を尊敬し称賛している」と書いた。
韓国政府や民間でもカニュ部隊の犠牲に恩返ししている。韓国政府は生存した参戦勇士300人余りに毎月5万ウォンほどの栄誉金を送っている。KOICAは昨年と今年、参戦勇士の子孫300人を韓国に招待して電機電子・自動車・配管など技術教育を8カ月過程で実施している。アディスアベバ市内の参戦勇士村内にヒブレット・ピレ小学校を建て、教師たちを韓国小学校に招いて見学させて韓国人の数学教師を派遣した。
民間では名声(ミョンソン)教会がアディスアベバに建てた名声キリスト病院が好評を得ている。現地の人たちが“韓国病院”と呼ぶこの病院は、エチオピア最高の現代式施設と装備を備えている。キム・ソンファン名声教会堂会長が1993年にエチオピアを訪問した際、凄惨な現実を見て設立を決心し2004年11月に開院した。この病院はエチオピア将兵の犠牲に報いるために参戦勇士は無料診療し、その家族は半額割引する。また病院付設医科大学に毎年、参戦勇士の子孫2人を選んで全額奨学金を与えている。
祖父が韓国戦争に参戦した勇士であり全額奨学金を受けて昨年9月に医大に入学したチャルギダン・モグスさんは「医大に通うには1年で授業料2000ドルを出さなければいけないので奨学金がなければ家庭の事情で医大進学は夢見ることも出来なかったこと」としながら「医大を卒業したら故郷の農村で貧しい人々を治療する医師になりたい」と話した。参戦勇士の孫娘で医大生になったブルック・イングラさんも「医師がとても不足しているエチオピアで小児科医になって、病気の子供たちを助けたい」として「韓国が貧しい国から金持ちの国になったように、エチオピアが発展国になる一助となりたい」と抱負を明らかにした。
キム・ジョングン在エチオピア大使は「名声キリスト病院は、援助資金が相対的に少ない韓国が援助の選択と集中をどのようにすべきか見せる良い事例だ」と話した。
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