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韓国自動車の地位を高めた現代車躍進の秘訣(1)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版

韓国の看板中型車「ソナタ」。 第1世代(左から)は1985年11月に中型車ステラの車体で始まった。 これまで5度のフルモデルチェンジがあった。 第6世代(YF)は現代(ヒョンデ)車独自のデザインを見せたと評価されている。

昨年下半期、日本のコンサルティング会社のコンサルタントから国際電話を受けた。 現代車の躍進の秘訣を分析する政府プロジェクトに取り組み、韓国の専門家にインタビューをしているということだった。 トヨタが2010年の大規模リコール事態、昨年の日本大地震で停滞したとはいえ、韓国自動車の位置づけがどれほど高まったかを改めて実感した。 記者が07、08年に日本でトヨタ生産方式を研究した当時とは全く違う状況だった。 当時、韓国産業に対する日本財界の関心といえば、ソニーを抜いたサムスン電子がほぼ唯一だった。 現代車も善戦していたが、日本のトヨタと競争するのは難しい雰囲気だった。 日産・ホンダとの競争も厳しいと考えられていた。 しかし08年の米国発金融危機後、現代車は世界5大自動車企業になった。 この数年間にどのようなことがあったのか。

現代車は09年、米国市場が冷え込むと、「失職者補償プログラム」というものを出して大きな利益を得た。 新車を購入した後に失業した場合、車を従来の価格で買い戻すという、これまでにないマーケティング技法だった。 さらに米ビッグ3が経営危機で広告を減らす間、視聴率が高いアメリカンフットボールのスーパーボウルにテレビ広告を出し、攻撃的なマーケティングを行った。 その結果、「魔の壁」だった米国内の年間50万台販売を初めて超えた。 鄭夢九(チョン・モング)現代・起亜(ヒョンデ・キア)自動車会長の速かな意思決定も功を奏した。 「販売沈滞で在庫が積もれば部品会社まで連鎖で倒産する。 各国の市場で購入インセンティブを増やし、在庫を早く減らして新車を投入すべき」という特命だった。 日本企業が円高に販売不振まで重なり右往左往する間、現代車は在庫を減らして新車を投入する循環構造に転換した。 デザイン革新も大きな力を発揮した。 欧州・米国のデザインセンターで現地人が好むデザインを果敢に導入した。 数年間に現代のブランドイメージは「日本車の亜流、格安の車」から「価格に比べて価値ある車」に格上げされた。

現代車は鄭周永(チョン・ジュヨン)現代グループ会長が1967年に設立した。 すでに50年代に米軍トラック整備工場を運営し、自動車産業に対する感覚は韓国内で誰よりも優れていた。 実際、経営は鄭会長の弟で後に‘ポニー鄭’と呼ばれた鄭世永(チョン・セヨン)社長がしていた。 フォードと技術提携し、設立翌年に中型セダン「コーティナ」を組立生産(CKD)した。 70年代に入ると、韓国自動車市場の可能性を見たフォードと三菱が現代車への出資を提案した。 しかし鄭会長はこれを断った。 合弁をすれば技術の自立が難しいうえ、輸出の道がふさがると考えた。 鋭い視点だった。 しかし直ちに報復を受けた。 フォードは現代車への技術提供を中断した。 しかし設立初期から鄭会長の執念は技術自立による輸出だった。 内需だけでグローバルメーカーになるのは難しいからだ。 トヨタ・日産に劣勢だった三菱は現代車からロイヤルティーを受けて技術を頻繁に移転した。 90年代初めまで18年間に三菱に支払ったロイヤルティーは巨額だ。 現代車の営業利益が1000億ウォン水準だった80年代末、ロイヤルティーだけで500億ウォン以上を支払った。


同じ時期、マレーシア政府も三菱との合弁でプロトン自動車を設立し、国策事業に育成したが、現代車の圧勝だった。 プロトンはこれまで独自の技術を確保できず、三菱の車体を利用して新車を開発している。 現代車の自立意志は1976年2月、独自モデル「ポニー」で結実した。



韓国自動車の地位を高めた現代車躍進の秘訣(2)

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