尹鍾龍(ユン・ジョンヨン)元サムスン電子副会長が2年前にこう語った。2年前にそう感じたということではない。30年前の1969年の衝撃を回想しながら述べた言葉だ。入社4年目だった尹鍾龍氏は、サムスン電子が設立されたその年、日本の三洋電機と松下電器(パナソニック)に行って研修を受けた。とうてい追いつけないという絶望感が尹氏を襲った。この時から尹氏の関心は「どうすれば日本に追いつけるのか」だった。
創業者の李秉喆(イ・ビョンチョル)会長が「日本から学ぶ」に総力を尽くした時期だった。後継者の李健煕(イ・ゴンヒ)会長も最初はそうした。「妻と子どもを除いてすべてを変えなさい」という新経営宣言も1993年6月に日本で始まった。言葉は「学ぶ」だが、実際は「コピー」だった。李秉喆会長の哲学からして「模倣は創造の母」だった。開発初期の不足した資金や技術のほか、経営方式、教育・訓練プログラムまでも日本からそのまま取り入れた。さらに国際政治など各種情報も日本が導入の窓口だった。李会長は新年を迎えると日本に滞在し、そこで得た知識と情報をまとめた「東京構想」がサムスンのその年の経営指針となった。
【コラム】「私たちの世代に日本に追いつけるだろうか」(2)
創業者の李秉喆(イ・ビョンチョル)会長が「日本から学ぶ」に総力を尽くした時期だった。後継者の李健煕(イ・ゴンヒ)会長も最初はそうした。「妻と子どもを除いてすべてを変えなさい」という新経営宣言も1993年6月に日本で始まった。言葉は「学ぶ」だが、実際は「コピー」だった。李秉喆会長の哲学からして「模倣は創造の母」だった。開発初期の不足した資金や技術のほか、経営方式、教育・訓練プログラムまでも日本からそのまま取り入れた。さらに国際政治など各種情報も日本が導入の窓口だった。李会長は新年を迎えると日本に滞在し、そこで得た知識と情報をまとめた「東京構想」がサムスンのその年の経営指針となった。
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