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史上最悪の強震と津波が日本東北部を襲って4日目の15日、地震の直撃弾を受けた宮城県仙台市と周辺地域の僑民80人余りが帰国した。彼らはこの日午後0時10分に仁川(インチョン)空港へKE764便に乗って入国した。仙台の僑民らが団体で入ってきたのは初めてだ。彼らは駐仙台総領事館で用意した車に乗り4時間30分の距離にある新潟空港に移動してから韓国行きの飛行機に搭乗した。仙台空港は地震被害で閉鎖された状態だ。
「悪夢のような5日でした。休みたいです」。2人の子どもとともに韓国に帰ってきたソン・インジャさん(43、女性)は何日も洗っていない頭を触りながら「疲れた」と繰り返した。牧師の夫とともに仙台市宮城野区に教会を建てて7年ぶりだった。これまで何度かの小さな地震を経験したが今回ほど恐ろしかったことはなかった。床と建物全体が爆弾を受けたように揺れ、あちこちで什器があふれて凶器に変わった。
余震が続く中で家族は臨時避難所の小学校の体育館で5日間を過ごした。家はあちこちにひびが入り崩壊する可能性が高かったためだ。ガス・水道・電気・通信は全部切れ、脱出する車もなかった。食べ物と水があるのは避難所が唯一だった。
1000人余りの被害住民が殺到した体育館はとても狭く横になって眠りを誘わなければならなかった。洗う水どころか飲む水も不足した。1日に朝、昼、夜にぴったり3カップだけ配給された。
食べ物も徐々に品薄になるのか配給量が1日3食から2食に減り、それまでのご飯に代わりパンが出てきた。灯油やガソリンタンクもすっかりなくなり寒さに震えた。それでもソンさんは、「食べ物が出てくるから避難所にいる人はまだ良いほう。体育館は収容人員が制限されており、崩壊危険のある家で待機する人も多かった」とした。
ソンさんが住んでいた所は幸い人命被害はなかった。だが、海と隣接した近隣の若林区には津波の被害を受けた。夫が逃げられなかった信者がいないか探すために自転車で海辺の集落を回ったが、そこで見たものは300余体の死体だけだった。
ソンさんは、「僑民の中には天井まで海水が入り込んだ中でバスケットボールを抱えて命拾いし救助されたケースもあった」と伝えた。
ソンさんは無条件で韓国に帰るべきだと考え領事館から新潟空港行きの車に乗った。夫は信者らを助けるとして日本に残った。ソンさんは、「領事館の配慮で子どもがいる親が先に出てくることができた。1カ月の往復チケットを買ったが、また戻るかはもう少し考えてみなければならない」とした。
<東日本大地震>避難所暮らし終え帰国する韓国僑民の証言...「悪夢のようだった」(2)
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