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肺結核は初期産業化の時代の代表的な伝染病だった。結核菌は、工場の煙突から噴き出される煙で覆われた街、糸の粉とほこりが飛ぶ作業所、換気もままならない家を、飢えて過ごす人々の肺の中へ、いとも簡単に浸透していった。
肺結核に感染して職場を失った労働者は、療養のために訪れた故郷で再び結核菌を広げることもあった。英語で「コンサンプション(consumption)」、漢方医学で「消耗症(マラスムス)」と呼ばれる同病は、人間の体力を消耗しつづけ、死に追い込んだ。致死率は非常に高かったが、生きる可能性が全くないわけではなかったため、患者らは「死に順応する道」と「生の意志を燃やす道」の間で一進一退した。
こうした精神的徘徊(はいかい)が、時には「芸術魂」に昇華することもあった。「23歳--3月--喀血(かっけつ)した。6カ月間も伸ばしたひげを、ある日かみそりで整え、鼻の下に蝶々ほどばかり残し、漢方薬一剤を調剤してもらった後、Bという新開地の閑静とした温泉へ向かった。そこで、私は死んでもよかった。しかし、いつの間にか、依然、翼を広げていない青春が、薬を煎じる素焼きの器にしがみ付いては、私を助けてくれとせがむのは、どうすることもできない。旅館の寒灯の下、夜になるたび私は悔いた」(李箱、「逢別記」、1936)。
1920~30年代、日本による植民支配時代の朝鮮(チョソン 1392~1910)は肺結核の地であった。毎年3万~4万人がこの病気で命を失った。しかし、総督府は公共の場所に「痰(たん)を吐く器」を備え、患者を隔離させるよう「指示」すること以外には、これといった対策を立てなかった。
28年に宣教師ショウド・ホールが韓国初の結核患者療養所の海州(ヘジュ)救世療養院を設置した。32年のクリスマスを控えては、その運営費と結核の退治に向けた宣伝費を作るためクリスマスシールを発行した。最初は亀甲船(コブクソン 朝鮮海軍の軍艦)を図案にする予定だったが、日本人を意識して崇礼門(スンレムン、南大門)に変えた。「朝鮮の子どもは名将の李舜臣(イ・スンシン)と亀甲船の話ならいくら聞かせても飽きることがない。私は、図案で、亀甲船が国家の敵である結核に向かって発砲する形で大砲を配置した。彼(日本人官吏)は機嫌を損ね、絵を指しながら、決して許可が出ないだろうと話した…熟考の末、新しい図案をソウルの崇礼門に決めた。これは結核を防御する砦を象徴する」(「ドクターホールの朝鮮回想」)。
疾病を天罰と受けとめた非常に長い歳月の後、すべての疾病を「撃退」または防げると信じた短い期間があった。しかし、疾病は決して完全に追い出せない「人生の敵対的同伴者」であった。韓国人の期待寿命が80歳を超えたから、そろそろ疾病と長く同居しつつも不幸にならない方策を見出せねばならない。
ソウル大学病院・病院歴史文化センター チョン・ウヨン研究教授
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