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家永三郎(1913-2002)は、侵略の歴史を美化する国家権力に対抗した日本の良心だった。
軍国主義の狂気が日本を襲った時代、沈黙しながら傍観者の生活を送った家永氏が、日本が負うべき「戦争責任」を悟ったのは1950年代に入ってからだった。
1955年に平和憲法改正を政綱として掲げた自民党が権力をにぎり、再武装を正当化するために、侵略の歴史を反省する歴史教育に制約を加え始めた。
これ以上研究室に座っていることはできなかった。「私は戦争中、いかなる抵抗もせず無駄に祖国の破壊を傍観し、多くの同世代の同胞の死を眺める気概のない人間だった。憲法空洞化の試みに対して国民一人ひとりが努力をすることが、特に私のように悲惨な戦争で死なずに生き残った世代の人間に与えられた責務だと考える。法廷で徹底的に戦い、こうした主張を法廷の外の国民に広く訴え、‘国民的迷信’を打破するための警鐘を鳴らす」。
1965年に国を相手に教科書検定違憲訴訟を東京地裁に起こした後、‘30年裁判’を率いながら日本社会全体の省察を促す木鐸として声を高めた。これに呼応した教師・父兄・研究者・文化人・出版労組などを中心に国との戦いが全国で繰り広げられた。
その結果、1970年には「検定不合格処分取消」という勝訴判決、1997年には「南京大虐殺」など3つの部分検定に対して一部勝訴判決を受けるなど成果を上げた。
いま家永氏の裁判を継承した高嶋教科書裁判が進行中で、教科書問題を国連など国際社会に訴えたり、平和学習のための戦争遺跡保存に努力する戦争遺跡保存全国ネットワークなどの市民団体が活発に活動中だ。
右翼勢力が書いた自由社版の中学校歴史教科書が検定を通過し、歪曲教科書が2つに増えた今日。1997年の3次訴訟上告審で弁論のために最高裁判所に入廷する家永氏(写真の真ん中=時事通信提供)と家永氏を囲む人たちを見ながら、和解と共存の可能性に希望を抱く。
40キロの小さな体格に胃腸病を抱えた体で国家権力に対抗し、32年間闘争した家永氏。家永氏の人生の軌跡は、個人の良心と思想の自由を保障する民主主義と平和を守るために努力する日本国内の良心勢力と私たちの市民社会、アジア地域の平和共存を図る人々に希望の記憶として迫る。
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