インターネット空間で表現の自由と責任の境界線はどこにあるか。「ミネルバ」という筆名で政府の経済政策を批判してきたパク・デソン氏に一昨日の1審で裁判所が下した無罪判決はこの問題に対する社会的合意を導出する出発点にしなくてはならない。検察が即時控訴すると明らかにしただけに、われわれは上級審がどのように判断するか注意深く見守りたい。これとは別にインターネットでの無責任な主張が招く副作用を最小化する策について真摯な社会的討論が行われるべきだとみる。必要ならば国会が乗り出して法的な不備点を補完すべきだ。
裁判所はパク氏が虚偽の事実をインターネットに書き込んだことは認めながらも、「全的に虚偽事実だと認識していたとみるには難しく、そうした認識があったとしても公益を害する目的があったとは認定できない」と明らかにした。検察が適用した電気通信基本法の罰則条項を厳格に解釈したものとみられる。問題は予想される後遺症だ。新聞・出版・放送など既成メディアは関連法規と社内規定に基づき虚偽報道や主張をあらかじめ抜いたり、厳格な事後措置を取る。言論の自由、表現の自由に相応する「責任」を負うものだ。これにより「ミネルバ誤報事件」を呼び起こした「新東亜」の関係者も調査を経て解任などの懲戒を甘受した。しかし10歳以上の国民の80%が利用するインターネットでは他人のことをかけつぎした扇動的な主張を匿名でむやみに上げ大きな被害を呼んでも無制限で免責されるなら果たして穏当だろうか。
パクさんに適用された電気通信基本法は韓国でインターネット商用化サービスが始まる10年前の1984年に施行された。「公益を害する目的で虚偽の通信をした」という罪目もこれまで罰金額だけ引き上げられながらそのまま維持されてきた。しかし古くなった法律を見つけて適用した検察は検察なりに理解に苦しみ、裁判所も判断する上で苦労が多かっただろうことが察せられる。1日ごとに進歩しているインターネット環境に見合った新たな規範が必要な理由だ。さらに最近は既成メディアよりインターネットを通じた疎通がはるかに早く広範囲な伝播力を持っている。少し前に大法院(最高裁に相当)がポータルサイトについて「被害者の要請がなくても名誉毀損の恐れがある掲示物を削除する義務がある」と判断したのもこうした状況を考慮した結果だ。
もちろん多様な水準と年齢の数千万人が利用するインターネットの「責任」を既成メディアと同一の物差しで測るのは無理だ。責任ばかり強調し反対に憲法が保障する表現・言論の自由を押さえ込む愚を犯す懸念もある。インターネットの純作用が政府機関など力のある集団の目を気にして萎縮してはならない。
悪口の混ざったレベルの低いつぎはぎの論文に振り回される韓国社会の知的水準に対する反省を含め、ネット空間での自由と責任について活発な討論がいまからでも活性化されなくてはならない。少なくともいまのままではだめだ。インターネットの長所と表現の自由を十分に生かし、ある地点からは責任も問う適正ライン、レッドラインが必要だ。被害はだれもが遭う可能性があるだけに、この議論では政治的利害関係を前面に立ててもならないとわれわれは判断する。
裁判所はパク氏が虚偽の事実をインターネットに書き込んだことは認めながらも、「全的に虚偽事実だと認識していたとみるには難しく、そうした認識があったとしても公益を害する目的があったとは認定できない」と明らかにした。検察が適用した電気通信基本法の罰則条項を厳格に解釈したものとみられる。問題は予想される後遺症だ。新聞・出版・放送など既成メディアは関連法規と社内規定に基づき虚偽報道や主張をあらかじめ抜いたり、厳格な事後措置を取る。言論の自由、表現の自由に相応する「責任」を負うものだ。これにより「ミネルバ誤報事件」を呼び起こした「新東亜」の関係者も調査を経て解任などの懲戒を甘受した。しかし10歳以上の国民の80%が利用するインターネットでは他人のことをかけつぎした扇動的な主張を匿名でむやみに上げ大きな被害を呼んでも無制限で免責されるなら果たして穏当だろうか。
パクさんに適用された電気通信基本法は韓国でインターネット商用化サービスが始まる10年前の1984年に施行された。「公益を害する目的で虚偽の通信をした」という罪目もこれまで罰金額だけ引き上げられながらそのまま維持されてきた。しかし古くなった法律を見つけて適用した検察は検察なりに理解に苦しみ、裁判所も判断する上で苦労が多かっただろうことが察せられる。1日ごとに進歩しているインターネット環境に見合った新たな規範が必要な理由だ。さらに最近は既成メディアよりインターネットを通じた疎通がはるかに早く広範囲な伝播力を持っている。少し前に大法院(最高裁に相当)がポータルサイトについて「被害者の要請がなくても名誉毀損の恐れがある掲示物を削除する義務がある」と判断したのもこうした状況を考慮した結果だ。
もちろん多様な水準と年齢の数千万人が利用するインターネットの「責任」を既成メディアと同一の物差しで測るのは無理だ。責任ばかり強調し反対に憲法が保障する表現・言論の自由を押さえ込む愚を犯す懸念もある。インターネットの純作用が政府機関など力のある集団の目を気にして萎縮してはならない。
悪口の混ざったレベルの低いつぎはぎの論文に振り回される韓国社会の知的水準に対する反省を含め、ネット空間での自由と責任について活発な討論がいまからでも活性化されなくてはならない。少なくともいまのままではだめだ。インターネットの長所と表現の自由を十分に生かし、ある地点からは責任も問う適正ライン、レッドラインが必要だ。被害はだれもが遭う可能性があるだけに、この議論では政治的利害関係を前面に立ててもならないとわれわれは判断する。
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