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日帝資料に依存して大韓民国臨時政府を研究する韓国の現実(2)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版
日本陸軍の寺内正毅大将は1910年5月30日、第3代韓国統監に任命されるや秘密裏に「併合準備委員会」を構成し、7月7日に21条からなる「併合実行方法細目」を制定した。その第1条が「国の名称」に関するものだ。「韓国(大韓帝国の略語)を改称して朝鮮にする」という方針を決めた。強制併呑が行われる前に「大韓」という国号から抹殺しようとしたのだ。

「韓国強占」が完了した1910年8月29日の直後である9月2日には明治天皇までが「韓国ノ国号ヲ改メ朝鮮ト称スルノ件」という勅令を発表した。初代朝鮮総督になった寺内は全国言論・出版・教育界と社会政治団体に関連して「大韓抹殺」作戦を展開した。「大韓」を冠した新聞や雑誌、団体は名称から「大韓」を取ったり(たとえば大韓毎日新報→毎日新報)、別の名称に改めさせたり〔たとえば大韓新聞→漢陽(ハンヤン)新聞〕、これを拒否する場合には販売を禁止させた。大韓という言葉を使えば制裁を受けたにもかかわらず、独立運動団体は喜んで大韓に固執した。

このような疑問も投じることができる。崔南善(チェ・ナムソン)が書いた己未(1919年)独立宣言文の本文で「吾等はジ(玄玄)に我 朝鮮の独立…」としたことはどのように考えるべきか。このような疑問も臨時政府文書を含めた源泉資料が公開されれば明らかになる可能性がある。参考に、己未独立宣言に先立ち、趙素アン(チョ・ソアン)が書いた戊午(1918年)独立宣言の場合には「大韓」と書かれていた。その題名も戊午独立宣言書ではなく「大韓独立宣言書」と明らかにしていた。「大韓」は1897年に大韓帝国創建時に初めて国号に採択されて以来、三・一運動と上海臨時政府に継承され、解放後今日まで大韓民国の国号として続いている。


また、異なる種類の臨時政府文書が北朝鮮にあるという。解放直後、臨時政府の要人たちが帰国する時に持ち込まれ、金九(キム・グ)の京橋荘(キョンギョジャン)に保管されていた臨時政府文書なのに、韓国戦争(朝鮮戦争)の時に北朝鮮軍が持っていったという。2度亡失した臨時政府文書の原本を返してもらうか写本でも手に入れて基礎を固めることこそ100周年を記念する最優先作業とするべきではなかろうか。

研究者が減りつつあるのも問題だ。現在、50~60代の研究者はわずか10人ほどだが、40代となれば指で数えられるほどで、20~30代に至っては命脈が切れることを心配する水準だ。

国民大学のチャン・ソクフン教授は「ソウル大・高麗大・延世大など主要大学史学科に独立運動専攻博士が専任教授として任用された事例が過去70年余りの間、ほぼなかったという点も問題」と指摘した。(中央SUNDAY第617号) 



日帝資料に依存して大韓民国臨時政府を研究する韓国の現実(1)


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