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「名分なき戦争」として朝鮮に投降した沙也可、日本にも顕彰碑(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

和歌山県の紀州東照宮にある沙也可顕彰碑。碑が建てられた当時の状況をよく知る人は「意図してこの場所を選んだわけではないが、碑の前の2本の木が絡んでいる姿があたかも韓日関係を表すようだ」と述べた。

日本では当初、沙也可を実存した人物として受け入れず、受け入れても否定的な認識を抱いてきた。沙也可に対する大衆的な関心を高めたのは1971年に司馬遼太郎が紀行文で沙也可を扱ってからだ。「背信者」のフレームから「大義のない戦争に抵抗した平和主義者」として沙也可を再解釈し始めたのもその後からだ。

和歌山県庁国際課の山下善夫国際企画班長は「沙也可のストーリーは映画化の話も出たほど多くの日本人が勇気ある人物と評価している」と述べた。

沙也可に関する記録は日本には残っていない。祖国を裏切った事実が明らかになる場合、残された家族が苦境に立たされることを憂慮して自らの身分を明らかにしなかったと考えられる。ただ、沙也可が火縄銃と大砲をうまく扱ったため、当時和歌山地域の鉄砲部隊として名が知られた雑賀部隊を率いた鈴木孫市の子孫が沙也可という説が最も有力だ。


「雑賀衆・沙也可で街おこしの会」の辻健会長は「特に罪のない民衆を残酷に殺すことで豊臣は有名だった」とし「沙也可は豊臣が戦争をすることに我慢できなかったようだ」と話した。また「当時、リスクを負って裏切りと変わらない帰化をしたのは強い信念と決意があったからだと考える」と語った。

当時、朝鮮としても沙也可を受け入れるのは容易な選択ではなかった。いつまた裏切るか分からない敵軍の武将に名前を与えて正二位まで昇進させたのは大きな決断だった。辻会長は「李舜臣(イ・スンシン)の艦隊に倭軍は全滅した。沙也可でなくとも壬辰倭乱の結果は変わっていなかっただろうが、火縄銃と大砲のおかげで朝鮮人の犠牲を減らしたとは思う」と述べた。

2000年代に韓日関係が急激に改善し、沙也可はいわゆる「韓日友好協力のアイコン」として扱われた。関連研究も活発になった。2012年には沙也可が建てた鹿洞書院がある大邱市(テグシ)達城郡(タルソングン)に韓日友好館もオープンした。日本では今でも辻会長を中心に毎年、沙也可をテーマにした朗読劇の会を開き、小学・中学生を対象に沙也可の平和思想などに関する授業をしている。

辻会長は「日韓関係にはいつも悪いことばかりあったわけではない」とし「今は徴用工問題などいくつか難しいことが絡んでいるが、文在寅(ムン・ジェイン)大統領に一度、沙也可の碑を訪れてほしい」と語った。



「名分なき戦争」として朝鮮に投降した沙也可、日本にも顕彰碑(1)


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