30年間は蓄積の時間だった。国内の技術で開発した最初の韓国型ロケット(KSLV-2)「ヌリ号」が宇宙に打ち上げるまでにかかった歳月とその意味だ。21日の打ち上げで3段目の75トンエンジンの燃焼が早く停止したことで目標速度の秒速7.5キロに到達せず、最後の軌道進入に失敗した。しかし宇宙ロケットの核心である1段目の75トンエンジン4基と2段目の燃焼過程までは完ぺきだった。1957年当時、旧ソ連が世界で初めて宇宙ロケット打ち上げに成功してから60年以上経過したが、韓国はその間、独自の技術もなく、米国が韓国の宇宙ロケット開発を望まなかったため、長い歳月を送ることになった。
公式の歴史にはないが国産液体ロケット開発の開始は1991年だった。当時も固体ロケット技術はあったが、射程距離を制限する韓米ミサイル指針のため、宇宙に人工衛星を打ち上げるほどの高性能ロケットに発展させることはできなかった。方法は、ミサイル指針規制から自由な液体ロケットを自力で開発することだった。
当時の航空宇宙研究院(航宇研)でエンジン開発室長を務めた蔡連錫(チェ・ヨンソク)元航宇研院長(70、2002-2005年)は「正式研究費がなく、研究所の内外部から資金を集めて液体ロケットの開発を始めた」とし「当時外国で公開された研究報告書にロケットに関する基本的な内容は出ているが、詳細部分は独自で研究しなければならなかった」と振り返った。推力180キロ、長さ20センチの人工衛星用推進機として使用できる超小型液体エンジンだったが、原点から出発した研究だったため完成まで4年もかかった。1995年6月当時、韓国火薬(現ハンファ)大田(テジョン)工場の空地にコンテナを用意し、4秒間の燃焼試験に成功した。
推力180キロの超小型液体エンジン開発の経験はその後、公式的な韓国の最初の「液体推進科学ロケット」KSR-3(Korean Sounding Rocket-III)につながった。KSR-3は当初、液体ではなく固体ロケットだった。1997年と1998年に打ち上げられた2段型固体科学ロケットKSR-2の後続モデルで、3段型で構成された。しかし航宇研は1995年、超小型液体エンジン燃焼試験を参観した当時の科学技術処担当局長を説得し、液体ロケットの開発に方向転換した。1段型のKSR-3には推力13トン級加圧式液体エンジンを開発・搭載した。1997年12月に開始したKSR-3は通貨危機状況だったが、780億ウォンの予算を投入して5年で開発に成功した。1998年8月に北朝鮮が打ち上げたテポドン1号もKSR-3の開発を刺激した。当時、北朝鮮はテポドン1号を北朝鮮初の人工衛星「光明星1号」を搭載した宇宙ロケットだと主張した。2002年11月に忠清南道泰安(テアン)安興(アンフン)総合試験場で試験打ち上げをしたKSR-3は高度43キロ、距離80キロを飛行した。科学ロケットという名称から分かるように、地球の低軌道に人工衛星を打ち上げる水準ではなかった。
続いて開発されたのが2013年1月に打ち上げに成功した韓国型ロケットKSLV-1「羅老(ナロ)号」だ。2段型で構成された「羅老号」は正式衛星ロケットだが、1段目をロシアの最新型「アンガラ」ロケットのエンジンをそのまま導入した。2段目には固体キックモーターエンジンを搭載した。それまで自力で開発してきた液体エンジンはなかった。理解しがたい決定だったが、これには理由があった。1998年の2段型固体科学ロケットKSR-2打ち上げ成功後、政府は「2005年までに自力で人工衛星を打ち上げる」と発表した。しかし時間も技術力も不足していた。2002年末にKSR-3の打ち上げに成功し、残された時間はわずか2年。それで考えたのが海外と共同開発する方法だった。当時、ソ連崩壊直後の混乱したロシア以外には協力に応じる国がなかった。ロシアも当初は液体エンジン共同開発を通じて技術移転をする雰囲気だった。しかし議会の反対などでロシアのロケットエンジンを導入して使用する方向で最終決定した。2002年のKSR-3打ち上げ成功から「羅老号」まで10年以上の歳月が流れた理由だ。
航宇研としては手放しにするわけにはいかなかった。国家プロジェクトの「羅老号」とは別に30トン級の液体ロケットエンジン開発に取り組んだ。ロシアとの協力が失敗に終わる場合に備えたBプランでもあった。2003年に開発チームを結成して独自の研究を始めた。ロケットエンジンの核心であるターボポンプと燃焼室まで開発したが、予算不足で試験はできなかった。当時、国内には燃焼試験設備さえもなかった。結局、ターボポンプと燃焼室をロシアまで持っていって試験することになった。さらにロシア現地の燃焼試験で爆発事故が発生し、ポンプと関連装備がすべて焼けた。ロシア側の協力も中断した。このようにして30トン液体ロケットエンジンの開発はストップした。しかし30トン液体エンジン開発に参加した研究者らは「ヌリ号」75トンエンジン開発プロジェクトに投入された。過ぎた歳月の未完プロジェクトが、韓国が独自開発した初の宇宙ロケット「ヌリ号」の本質になったのだ。
「ヌリ号」プロジェクトの最高責任者コ・ジョンファン韓国型ロケット開発事業本部長は21日午後、最終段階の失敗を確認した後、涙を浮かべた。コ本部長は「ロケットエンジン技術は世界のどの国も外国に教えない安保技術であり、開発初期には米国など宇宙強国の宇宙博物館に展示されたロケットエンジンを見たりしながら構造を学んだ」とし「『羅老号』の時も短機関銃を持ったロシアのセキュリティー要員の監視を避けながらロシアの科学者と交流して液体ロケットエンジン技術のヒントを得たりもした」と話した。
公式の歴史にはないが国産液体ロケット開発の開始は1991年だった。当時も固体ロケット技術はあったが、射程距離を制限する韓米ミサイル指針のため、宇宙に人工衛星を打ち上げるほどの高性能ロケットに発展させることはできなかった。方法は、ミサイル指針規制から自由な液体ロケットを自力で開発することだった。
当時の航空宇宙研究院(航宇研)でエンジン開発室長を務めた蔡連錫(チェ・ヨンソク)元航宇研院長(70、2002-2005年)は「正式研究費がなく、研究所の内外部から資金を集めて液体ロケットの開発を始めた」とし「当時外国で公開された研究報告書にロケットに関する基本的な内容は出ているが、詳細部分は独自で研究しなければならなかった」と振り返った。推力180キロ、長さ20センチの人工衛星用推進機として使用できる超小型液体エンジンだったが、原点から出発した研究だったため完成まで4年もかかった。1995年6月当時、韓国火薬(現ハンファ)大田(テジョン)工場の空地にコンテナを用意し、4秒間の燃焼試験に成功した。
推力180キロの超小型液体エンジン開発の経験はその後、公式的な韓国の最初の「液体推進科学ロケット」KSR-3(Korean Sounding Rocket-III)につながった。KSR-3は当初、液体ではなく固体ロケットだった。1997年と1998年に打ち上げられた2段型固体科学ロケットKSR-2の後続モデルで、3段型で構成された。しかし航宇研は1995年、超小型液体エンジン燃焼試験を参観した当時の科学技術処担当局長を説得し、液体ロケットの開発に方向転換した。1段型のKSR-3には推力13トン級加圧式液体エンジンを開発・搭載した。1997年12月に開始したKSR-3は通貨危機状況だったが、780億ウォンの予算を投入して5年で開発に成功した。1998年8月に北朝鮮が打ち上げたテポドン1号もKSR-3の開発を刺激した。当時、北朝鮮はテポドン1号を北朝鮮初の人工衛星「光明星1号」を搭載した宇宙ロケットだと主張した。2002年11月に忠清南道泰安(テアン)安興(アンフン)総合試験場で試験打ち上げをしたKSR-3は高度43キロ、距離80キロを飛行した。科学ロケットという名称から分かるように、地球の低軌道に人工衛星を打ち上げる水準ではなかった。
続いて開発されたのが2013年1月に打ち上げに成功した韓国型ロケットKSLV-1「羅老(ナロ)号」だ。2段型で構成された「羅老号」は正式衛星ロケットだが、1段目をロシアの最新型「アンガラ」ロケットのエンジンをそのまま導入した。2段目には固体キックモーターエンジンを搭載した。それまで自力で開発してきた液体エンジンはなかった。理解しがたい決定だったが、これには理由があった。1998年の2段型固体科学ロケットKSR-2打ち上げ成功後、政府は「2005年までに自力で人工衛星を打ち上げる」と発表した。しかし時間も技術力も不足していた。2002年末にKSR-3の打ち上げに成功し、残された時間はわずか2年。それで考えたのが海外と共同開発する方法だった。当時、ソ連崩壊直後の混乱したロシア以外には協力に応じる国がなかった。ロシアも当初は液体エンジン共同開発を通じて技術移転をする雰囲気だった。しかし議会の反対などでロシアのロケットエンジンを導入して使用する方向で最終決定した。2002年のKSR-3打ち上げ成功から「羅老号」まで10年以上の歳月が流れた理由だ。
航宇研としては手放しにするわけにはいかなかった。国家プロジェクトの「羅老号」とは別に30トン級の液体ロケットエンジン開発に取り組んだ。ロシアとの協力が失敗に終わる場合に備えたBプランでもあった。2003年に開発チームを結成して独自の研究を始めた。ロケットエンジンの核心であるターボポンプと燃焼室まで開発したが、予算不足で試験はできなかった。当時、国内には燃焼試験設備さえもなかった。結局、ターボポンプと燃焼室をロシアまで持っていって試験することになった。さらにロシア現地の燃焼試験で爆発事故が発生し、ポンプと関連装備がすべて焼けた。ロシア側の協力も中断した。このようにして30トン液体ロケットエンジンの開発はストップした。しかし30トン液体エンジン開発に参加した研究者らは「ヌリ号」75トンエンジン開発プロジェクトに投入された。過ぎた歳月の未完プロジェクトが、韓国が独自開発した初の宇宙ロケット「ヌリ号」の本質になったのだ。
「ヌリ号」プロジェクトの最高責任者コ・ジョンファン韓国型ロケット開発事業本部長は21日午後、最終段階の失敗を確認した後、涙を浮かべた。コ本部長は「ロケットエンジン技術は世界のどの国も外国に教えない安保技術であり、開発初期には米国など宇宙強国の宇宙博物館に展示されたロケットエンジンを見たりしながら構造を学んだ」とし「『羅老号』の時も短機関銃を持ったロシアのセキュリティー要員の監視を避けながらロシアの科学者と交流して液体ロケットエンジン技術のヒントを得たりもした」と話した。
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