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福田家は東京-北京の“ホットライン”

1978年8月12日、中国・北京の人民大会堂。当時の園田直外相と黄華・中国外務相が日中平和友好条約を締結した。両国がすべての紛争を平和的に解決し、武力や脅威に依存しない、という内容だった。この条約は、72年の国交正常化以降、最も前進をみせた両国間の平和条約に評価されている。

日本では、日中共同声明(72年)が両国をつなぐ「懸け橋」だったとすれば、平和友好条約は揺るがない「鉄橋」だと比喩(ひゆ)した。この条約を引き出した張本人は、当時の福田赳夫(写真)首相だった。福田首相は「日本と中国は、アジアはもちろん世界の和平定着のために、リーダーの役割を共に遂行しなければならない」とし、周囲の反対世論を押し切って、条約を締結した。

同年10月23日に東京で開かれた平和友好条約批准書の交換式では、福田赳夫首相と当時の鄧小平中国副首相が握手を交わした。そのとき、福田首相の秘書だった息子、福田康夫現首相は会議場の裏でその姿を見守った。そして、ちょうど30年後、康夫氏は首相となり、中国首脳と新たな日中共同文書に署名することになった。


こうした同氏家門の来歴のおかげで、中国では康夫氏を「井戸を掘ってくれた人の息子」として、もてなしている。中国の唐家セン国務委員はもちろん、王毅氏など歴代の駐日大使らともホットラインがある。国会議員になった後は「中国通」と呼ばれ、外交専門家として寄与した。外務省関係者は「日中関係が重要な局面を迎える度、水面下の調整をしてくれた人が福田首相だ」と話している。



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