ハン教授=壬辰倭乱の克服の3功臣を選ぶなら、李舜臣・柳成龍・郭再祐(クァク・ジェウ)を挙げたい。 李舜臣は東アジア海域の覇権を掌握し、明の安保も守った。 柳成龍は宰相として、一方では王権を守るのに及々とする宣祖を保衛し、もう一方では戦おうとはせず朝鮮の内政に干渉する明軍指揮部をなだめようと苦闘した。 忠誠心と愛国心の塊だった郭再祐は義兵長の表象だった。
宋教授=柳成龍の卓越したリーダーシップが最も引き立って見えた部分は、陸軍だった李舜臣を水軍将帥に任命し、7段階も昇進させたことだ。 パラダイムを完全に転換した人事起用だった。 李舜臣と柳成龍が海と陸地で体を張って守った国を、300年後の子孫は一度の戦争もなくそのまま日本に明け渡してしまった。 リーダーシップの重要性を痛感する。
ハン教授=当時、柳成龍にとって最も恥辱的なことは、明軍指揮部に会い、日本軍との決戦を繰り広げてほしいと訴えることだった。 明は自国の戦略的目標(戦争を遼東に拡大させないこと)がある程度達成された後、朝鮮の立場は全く考慮しなかった。 強大国が他国の戦争に加わって目標を達成した後の行動様態は概して似ている。 明と日本の江華(カンファ)交渉が始まった後、‘朝鮮問題’は明内部の政治問題になる。 朝鮮は徹底的に疎外され、‘中日戦争’に戦争の性格が変わっていくのだ。 朝鮮としては思ってもいないジレンマだ。 明は戦う考えはなく、長期間駐屯しながら弊害を及ぼし、日本軍は南海岸に長期間留まって略奪と捕虜確保を行なった。 この状況で朝鮮の民衆は最悪の苦痛を味わうことになった。 壬辰倭乱で最も注目すべき部分はこうした点だと思う。
◇懲毖録=朝鮮・宣祖のとき領議政として壬辰倭乱を総括指揮した西厓・柳成龍(1542-1607)が、戦後に戦争状況を回顧して記録したもの。 戦争に対する反省とともに後難を警戒する内容が書かれている。 日本の長所も記述するなど、史料的な客観性を持つと評価されている。
「韓半島の分断、400年前の壬辰倭乱が源流」(1)
「韓半島の分断、400年前の壬辰倭乱が源流」(2)
「韓半島の分断、400年前の壬辰倭乱が源流」(3)
宋教授=柳成龍の卓越したリーダーシップが最も引き立って見えた部分は、陸軍だった李舜臣を水軍将帥に任命し、7段階も昇進させたことだ。 パラダイムを完全に転換した人事起用だった。 李舜臣と柳成龍が海と陸地で体を張って守った国を、300年後の子孫は一度の戦争もなくそのまま日本に明け渡してしまった。 リーダーシップの重要性を痛感する。
ハン教授=当時、柳成龍にとって最も恥辱的なことは、明軍指揮部に会い、日本軍との決戦を繰り広げてほしいと訴えることだった。 明は自国の戦略的目標(戦争を遼東に拡大させないこと)がある程度達成された後、朝鮮の立場は全く考慮しなかった。 強大国が他国の戦争に加わって目標を達成した後の行動様態は概して似ている。 明と日本の江華(カンファ)交渉が始まった後、‘朝鮮問題’は明内部の政治問題になる。 朝鮮は徹底的に疎外され、‘中日戦争’に戦争の性格が変わっていくのだ。 朝鮮としては思ってもいないジレンマだ。 明は戦う考えはなく、長期間駐屯しながら弊害を及ぼし、日本軍は南海岸に長期間留まって略奪と捕虜確保を行なった。 この状況で朝鮮の民衆は最悪の苦痛を味わうことになった。 壬辰倭乱で最も注目すべき部分はこうした点だと思う。
◇懲毖録=朝鮮・宣祖のとき領議政として壬辰倭乱を総括指揮した西厓・柳成龍(1542-1607)が、戦後に戦争状況を回顧して記録したもの。 戦争に対する反省とともに後難を警戒する内容が書かれている。 日本の長所も記述するなど、史料的な客観性を持つと評価されている。
「韓半島の分断、400年前の壬辰倭乱が源流」(1)
「韓半島の分断、400年前の壬辰倭乱が源流」(2)
「韓半島の分断、400年前の壬辰倭乱が源流」(3)
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