盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権で任命された任期職の人々の去就をめぐり論議が起きている。安相洙(アン・サンス)ハンナラ党院内代表が彼らの自主辞退を促した。柳仁村(ユ・インチョン)文化部長官も「以前の政権の政治色を持った文化芸術界団体長らは自ら退くのが自然だ」と話した。
しかし対象者の大部分は任期条項を掲げて粘っている。民主党は“魔女狩り”“民主改革勢力に対する粛清」と反発する。この問題には価値と現実が複合的に絡まっている。任期制は保護する価値がある。しかし任期で保護される資格がない人が任期を掲げればどのようにするかという問題だ。国営企業体と団体の役員など任期が保障された任命職は百以上に達する。法で任期を規定したのは政治権力や労組、そのほかの圧力から自由でいながら職責を忠実にまっとうするようにとの趣旨だ。法と原則で見るとこのような趣旨は保護されなければならない。
しかしこれまでこのような任期は保障されることがなかった。政権が変わるたびに本人が自ら退いたり、でなければ政権が権力を動員して交替させてきた。そのためこのような職責の人々は、大統領選挙で本業を歪曲し、特定政治勢力のために活動もした。政権と関係なく任期が保障されればこのような形の副作用は防げる。新政権には常に多くの職責が必要だ。大統領選挙で支援してくれた彼らに論功行賞次元から職責を用意してあげなければならない。適切でない人が国営企業や公共機関の経営を担い、不振を招いたのはこうした古くからの慣行による。
革新を叫んだ盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権でも386闘士を含んだいわゆる民主化経歴者らが天下りで国営企業などの多くの要職を占めた。改革を叫んだ人々が公企業予算で南米イグアスの滝に遊覧に行った。天下りで降りてきて、アイデンティティーが足りずに労組に振り回されるのが常だ。誰もがいとおしむ職場になるので“神が降りた職場”というモラルハザードができたのだ。慣行がこれでは盧武鉉政府の人々が退いた席を李明博政府の人々が満たさないという保障はない。こうした場合、あるコード人事が退けば別のコード人事が入る格好になる。このようなとき、コード云々言いながら、過去の要人を追い出す名分がないのだ。
任期制は保護されてこそ当然だ。しかしもう一方で任期制を歪曲する現実を直視せざるをえない。過去の政権で任命されたとしてすべてコード人事だと非難はできない。しかし過去の政権の手足となって仕事をした人が任期遵守を打ち出して居座っているのも問題だ。各人自ら評価しなければならないということだ。
どんな任期職の要人が任務遂行と組織経営にしようが、問題が多いと内外で問題を提起したらその要人は離れるのが正しい。任期という盾の後ろに隠れるのは卑怯だ。一方、誰が見てもよい人物ならば過去の政権が任命したとして追い出すことは正しくない。公営放送の首長は何より政治的独立性と経営能力が重視されなければならない。2つの側面で世論の非難を受けて組織員の信頼を喪失したとすれば、彼は組織のために退かなければならない。
盧武鉉政権は何より韓国の誇らしい現代史を歪曲した政権だった。建国と近代化、自由民主主義をさげすんだ狭い歴史観を持った人が歴史を代表する機関の場に残っていることはできない。
一政権の言論政策はその政権の民主主義精神と成熟性を反映する。盧政権はそのような点で‘未熟者’の政権だった。そのような政権の言論弾圧政策に同調した人々が言論関連団体要職として粘るのは時代に逆行するのだ。任期制は保護される価値があるが、ただそれは保護されるほどの人に限ってだ。したがって任期制問題は1人ひとりのケースにより判断が変わらなければならない。さらに望ましいのはこういう誤りがある人物ならば自ら退くのが正しい身の振り方だ。
しかし対象者の大部分は任期条項を掲げて粘っている。民主党は“魔女狩り”“民主改革勢力に対する粛清」と反発する。この問題には価値と現実が複合的に絡まっている。任期制は保護する価値がある。しかし任期で保護される資格がない人が任期を掲げればどのようにするかという問題だ。国営企業体と団体の役員など任期が保障された任命職は百以上に達する。法で任期を規定したのは政治権力や労組、そのほかの圧力から自由でいながら職責を忠実にまっとうするようにとの趣旨だ。法と原則で見るとこのような趣旨は保護されなければならない。
しかしこれまでこのような任期は保障されることがなかった。政権が変わるたびに本人が自ら退いたり、でなければ政権が権力を動員して交替させてきた。そのためこのような職責の人々は、大統領選挙で本業を歪曲し、特定政治勢力のために活動もした。政権と関係なく任期が保障されればこのような形の副作用は防げる。新政権には常に多くの職責が必要だ。大統領選挙で支援してくれた彼らに論功行賞次元から職責を用意してあげなければならない。適切でない人が国営企業や公共機関の経営を担い、不振を招いたのはこうした古くからの慣行による。
革新を叫んだ盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権でも386闘士を含んだいわゆる民主化経歴者らが天下りで国営企業などの多くの要職を占めた。改革を叫んだ人々が公企業予算で南米イグアスの滝に遊覧に行った。天下りで降りてきて、アイデンティティーが足りずに労組に振り回されるのが常だ。誰もがいとおしむ職場になるので“神が降りた職場”というモラルハザードができたのだ。慣行がこれでは盧武鉉政府の人々が退いた席を李明博政府の人々が満たさないという保障はない。こうした場合、あるコード人事が退けば別のコード人事が入る格好になる。このようなとき、コード云々言いながら、過去の要人を追い出す名分がないのだ。
任期制は保護されてこそ当然だ。しかしもう一方で任期制を歪曲する現実を直視せざるをえない。過去の政権で任命されたとしてすべてコード人事だと非難はできない。しかし過去の政権の手足となって仕事をした人が任期遵守を打ち出して居座っているのも問題だ。各人自ら評価しなければならないということだ。
どんな任期職の要人が任務遂行と組織経営にしようが、問題が多いと内外で問題を提起したらその要人は離れるのが正しい。任期という盾の後ろに隠れるのは卑怯だ。一方、誰が見てもよい人物ならば過去の政権が任命したとして追い出すことは正しくない。公営放送の首長は何より政治的独立性と経営能力が重視されなければならない。2つの側面で世論の非難を受けて組織員の信頼を喪失したとすれば、彼は組織のために退かなければならない。
盧武鉉政権は何より韓国の誇らしい現代史を歪曲した政権だった。建国と近代化、自由民主主義をさげすんだ狭い歴史観を持った人が歴史を代表する機関の場に残っていることはできない。
一政権の言論政策はその政権の民主主義精神と成熟性を反映する。盧政権はそのような点で‘未熟者’の政権だった。そのような政権の言論弾圧政策に同調した人々が言論関連団体要職として粘るのは時代に逆行するのだ。任期制は保護される価値があるが、ただそれは保護されるほどの人に限ってだ。したがって任期制問題は1人ひとりのケースにより判断が変わらなければならない。さらに望ましいのはこういう誤りがある人物ならば自ら退くのが正しい身の振り方だ。
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