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高句麗壁画が到達点、崔永林・棟方志功2人展

崔永林(左)と棟方志功



「高句麗古墳の壁画が今もよく夢の中に現われます。率直に言えば、満州の高句麗古墳の壁画が、今の私を育ててくれた母だったと思います」(小野忠明が崔永林に、1966年2月)

「パリを出発して米国ニューヨークで現代美術館の『ゲルニカ』をご覧になったでしょう。私はなぜかその絵が現代美術作品の中でいちばん好きです」(棟方志功が崔永林に、1973年7月)--。


パブロ・ピカソと高句麗古墳の壁画は韓日の近代作家の造形世界を完成させた羅針盤の働きをした。韓国近代画家崔永林(チェ・ヨンリム、1916~85)とその師である日本木版画の巨匠棟方志功(1903~75)の2人展が国立現代美術館分館の徳寿宮(トクスグン)美術館で行われている。朴寿根(パク・スグン)、李仲燮(イ・ジュンソプ)ばかりが挙論される美術界や美術市場に、国民画家、崔永林がいたことを知らしめる展示だ。

1938年、平壌(ピョンヤン)の光成(クァンソン)高等普通学校を卒業したばかりの23歳崔永林は、平壌博物館職員小野忠明の紹介状を持って東京に向かった。当時、版画家として有名だった棟方志功に弟子入りするためだ。小野忠明は棟方志功に油絵を教えた師だった。しかし、崔永林は家の反対で2年ほどで帰国し、解放と6・25などの激動期を過ごした。家族と離れて南下し、済州(チェジュ)や馬山(マサン)などを放浪した。

この渦中に棟方志功は55年、サンパウロ・ビエンナーレ、56年、ベネチア・ビエンナーレで版画部門大賞を受賞する。崔永林はこの新聞記事をスクラップするなど、師匠の歩みに深い関心を見せた。伝統を持って世界に踏み出した師匠の試みが成功したと判断し、本人もまた木版画を始めた。師弟がまた連絡がとれたのは65年、韓日修交以後だった。

装飾的木版画の大家、棟方志功は仏教的素材や話を木版画にすることを楽しみ、崔永林もその影響を受けた。伝統的技法と素材から出発したが、ピカソの画面分割、人物の立体的表現方法を試みるなど、西欧モダニズムを受け入れた。37年、ピカソが内乱で廃墟になった小都市の悲劇を素材として描いた壁画『ゲルニカ』を描いたように、崔永林は『1950.6.25』を描き、棟方志功は木版画『東北風の柵』を彫った。『東北風の柵』は故郷青森に飢饉が訪れ、多くの人が死亡した事件を扱った作品だ。2つの作品は『ゲルニカ』のオマージュだ。

崔永林『1950.6.25』



女性という素材を楽しんで描いた点も似ているが、性格は違う。棟方志功は女神のように君臨する派手な女性像を、崔永林は泥と砂を交ぜて塗り、土の色の肌をしたふっくらした女性像を描いた。地母神を連想するような健康美あふれるエロティシズムの具現だ。

棟方志功『華狩頌』



展示された作品のうち棟方志功の『華狩頌』は、高句麗古墳壁画の狩猟図を連想させる。崔永林の『花の風』などに現われた背景も同じだ。西欧モダニズムを受け入れながらも自己の様式について悩んだ2人がともに到達した地点だ。

日本の青森県立美術館と共同企画したもので、昨年末、日本の展示に続いて韓国で3月30日まで行われる。2人の作家の油絵、版画、ドローイングなど120余点が展示。02-2022-0600



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