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「1944年のある夏の日、 人生の花が咲き始めた20歳の兄は当時9歳だった私に‘すぐに帰ってくる’と言いながら行ってしまった。 あれから64年。 その間、兄は骨になって他国の地で母・父・弟の顔を浮い浮かべながら長い間眠っていた…これからは故郷で安らかに眠ってほしい」。
22日午後1時、東京・目黒区にある祐天寺。 遺族代表の金慶逢(キム・キョンボン)さん(73)が哀痛の声で追悼の辞を述べた。
追悼式には日本外務省・厚生労働省の幹部も出席した。 しかし遺族は「なぜ今まで返還されなかったのか」と悔しさを隠すことができなかった。
強制動員被害真相究明委員会の全基浩(チョン・キホ)委員長は「遺族が1965年の韓日国交正常化から数十年間、日本各地を回りながら父や兄・弟の遺骨を尋ねてきたが、ほとんど成果はなかった」と語った。
苦労して血縁と思われる遺骨を探しても、真偽は確認できなかった。 強圧的な創氏改名で日本式の名前に変わったうえ、日本政府が情報公開を拒否することが多かったからだ。
このように植民地時代に強制動員され、アジア・太平洋各地で死亡し、日本に埋められている韓国人犠牲者の遺骨が、初めて母国に戻ってくる。 遺骨は23日に遺族に抱かれて帰国した後、忠清北道天安(チュンチョンブクド・チョンアン)‘望郷の丘’に安置される。
遺骨返還のきっかけは04年12月に行われた韓日首脳シャトル外交。 九州の指宿で会談し、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が遺骨の返還を要請し、当時の小泉純一郎首相は友好協力のため政府レベルの支援を約束した。
日本政府は3年間の実態把握を通して、強制動員された韓国人軍人・軍属の遺骨を唯一公式安置していた祐天寺で、1135柱の遺骨を確認した。 ここには1945年8月24日に日本から数千人の韓国人徴用者を乗せて玄海灘を渡る途中、原因不明の爆破事故で沈没した浮島丸事件の犠牲者の遺骨も一部含まれていた。
祐天寺の遺骨のうち韓国国籍者は704柱。 この日返還される遺骨は遺族が確認された283柱のうち101柱だ。 遺族が確認された残りの遺骨は年内に順次返還される予定だ。
真相調査委員会によると、犠牲者らは1935-45年に集中的に日本の軍人・軍属となり、アジア・太平洋各地に配置された。 当時犠牲になった韓国人軍人・軍属は日本政府の集計だけで2万2000人にのぼる。
犠牲者らは日本本土や中国・ミャンマー・インドネシア・パプアニューギニア・フィリピンをはじめ、太平洋の名前も知らない島で、銃に撃たれたり病気にかかったりして苦しみながら死亡した。
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