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1868年、江戸城に無血入城した明治新政府が真っ先に探したのは城内にあった金庫だった。 だが江戸幕府が莫大な秘密資金を隠していると考えていた金庫の中は空っぽだった。 それから新政府軍の‘埋蔵金探し’は始まった。 「利根川を渡ってきた船から降りた人たちが群馬県の名山、赤城山に何かを運んだ」という目撃者らの証言によって、この一帯では大規模な探索作業が何年も続いた。 実際、意味の分からない文字や地図が書かれた銅版が見つかり、疑惑は増幅した。 しかし全く所得はなかった。 その後「赤木山埋蔵説は実際の隠し場所をごまかすための偽装術」という主張が提起された。 そして日本全国で発掘プロジェクトが進められた。 超能力者を動員して埋蔵金を探すという試みもあった。
豊臣秀吉の埋蔵金の規模はもっと多い。大阪城には時価5000億円にのぼる金塊と財貨が備蓄されていたと伝えられている。 1598年、秀吉の遺言を伝えた文書には「太閤(秀吉の尊称)の命により、6歳の秀頼(秀吉の息子)が15歳になり、諸国を治める必要があれば、埋蔵金を掘り起こせ」と書かれている。 一部の他の文書には「朝鮮征伐の残金4億5000万両と金塊3万貫(112.5トン)をあるところに埋めた」とある。 現在では数百兆円にのぼる巨額だ。 日本鉱業という会社はまだ未練を捨て切れず、豊臣の埋蔵金が埋まっているといわれる兵庫県一帯を探している。 もちろん埋蔵金が見つかったという話は聞こえてこない。
最近、日本の政界では‘埋蔵金’の話が持ち上がっている。 江戸幕府や豊臣が埋めたという金の話ではない。 監視の目が届きにくい特別会計に埋蔵金があるかどうかというのが話の核心だ。 「40兆円と推定される特別会計積立金は‘埋蔵金’だ。 これを掘り起こして事情が厳しい地方に回そう」という一部からの提案に、官庁が集まっている地域名にちなんだ‘霞が関埋蔵金’という新造語までが生まれた。
大統領選挙を数日後に控えて、ハンナラ党の李明博(イ・ミョンバク)候補が2000年の大学講演で「私がBBKを設立した」という要旨の発言をした映像が公開された。 劣勢にある候補らの立場としては、寤寐不忘(寝ても覚めても忘れず)探してきた‘BBK埋蔵金伝説’を確認した気分だろう。 絶えず出てくる疑惑と「全く関連ない」という反論の間のどこ辺りに真実があるのかが気になる。
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