ロシア沿海州下山クラスキーノ(燕雛河村)の抗日義兵本拠地と推定される地域(燕雛河川上流)で発見された韓国の瓦。専門家たちはこの瓦が当時この地域に韓国人財力家の瓦の建物があったという証だと見ている。沿海州地域で韓国の瓦が発見されたのはここだけだ。(軍事編纂研究所提供) |
韓日併合の年の1910年ごろに形成された国外抗日義兵運動の本拠地がロシア沿海州地域で発見された。
沿海州地域は旧韓末、韓国の人々が大挙移住して韓人村を形成し、安重根(アン・ジュングン)義士と洪範図(ホン・ボムド)義兵長が活動した所だ。
最近、国防省傘下軍事編纂研究所シム・ホンヨン博士は、ロシア沿海州ハサン・クラスキーノのツカノボ村(燕雛河里)上流地域に330万平方メートル(100万坪)規模の韓人村と抗日義兵運動訓練場を見つけたと明らかにした。
沿海州ハサンは中国とロシアの国境紛争地で、2003年、ブラジミール・プーチン大統領の指示で初めて開放された。
今年5月28~31日、現地を踏査して関連研究をしてきたシム博士によると燕雛河里の抗日義兵本拠は1908年春から形成された。当時この村には断指同盟を決行した安重根義士ら12人の愛国志士が属した同義会が設立された。同義会は韓人たちが相互扶助と民族自治、義兵活動を支援する目的に作られた。同義会は燕雛河里の都憲(里長)ながら財力家だった崔才亨(チェ・ジェヒョン)が支援して組職が結成された。
崔才亨が同義会総長を務め、朝鮮皇室から派遣された間島管理使李範允(イ・ボムユン)が副総長を務めたという。また元駐ロシア韓国公使李範晋(イ・ボムジン)の息子でヘイグ特使だった李偉鍾(イ・ウィジョン)が議長を、独立運動家厳仁燮(オム・インソプ)が副会長を務めたという。安重根義士はウラジオストク近くの一帯を管掌する支会で評議員として活動した。
燕雛河里の義兵本拠が活発になったのは李範允が抗日義兵運動を強化したためだ。この間島の管理使が武装勢力である彰義會を組織して国外義兵勢力を統合、ここで国内進攻作戦を準備した。義兵たちが1908年、陸路と海路を通じて実行に移したが、日帝との戦闘で失敗した。
シム博士はここで沿海州義兵を訓練した練兵場敷地と推定される8カ所の平たい土地を見つけた。韓人村敷地の一方にある33万平方メートル規模の土地からは韓国人が住んだということを証明する瓦も出土した。4つの瓦の家の跡地は沿海州義兵運動の本部の建物と推定される。また周辺には多数の韓人が住んだということを証明する、穀物をひいたとみられる跡地が6カ所あった。
シム博士は現地に居住するイ・ピョートルさん(89)が「彰義軍は燕雛河里にいた。そこには1日に数十台の馬車が出入りしていたと聞いている」と証言したと伝えた。彼はこれから文献などを通じ、学界と関係機関の考証作業が必要だと付け加えた。
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