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それでもトゥルマギははじめから愛されていたものではなかった。朝鮮朝両班(ヤンバン)士大夫たちはトゥルマギの代わりに袖がゆらゆらなびき、長さも長い道袍や中致莫(チュンチマック)を着た。道袍は背が開いており、その上に一枚、展衫(チョンサム)を着るのだが、展衫が風に優雅にはためく風流を両班たちは楽しんだ。中致莫も袖が広く、両側が開いた三つの裾服だった。常民たちは道袍や中致莫を着るのが許されなかったため、トゥルマギを上着に着なければならなかった。しかし朝鮮後期に来て禁忌が禁忌でなくなったのだ。常民はもちろん、賎民層にまで道袍が流行った。茶山・丁若鏞(タサン、チョン・ヤクヨン)が『牧民心書(モクミンシムソ)』でこんな風潮を慨嘆するほどだった。
服飾虚礼の度がすぎると、高宗(コジョン)は1884年複製改革を断行、広い袖の服を全面禁止とした。両班たちも開きのない「すべてがふさがった」という意味の「トゥルマギ」を着なければならなかった。試着してみるとずっと楽だった。たちまちトゥルマギは通常の礼服となった。このような変化は伝統服飾に盛り込まれていた身分象徴性を退色させ、身分制撤廃を加速化するきっかけとなった。
トゥルマギの一般化にはチョッキの登場も一役買った。両班たちは道袍の袖に懐を作って品物を持ち歩いたが、洋服から始まったチョッキが普及され、両方の懐が道袍の懐以上の役割を果たしたのだ。
話のついでに高宗は、黒い色トゥルマギを奨励した。白が非経済的という理由であった。1903年には薄い色のトゥルマギを一切禁止とし、黒い色のみを着るようにした。明らかに行きすぎだった。捕吏たちが道を阻んで黒いトゥルマギではなければ通過させなかったり、白い服に泥を塗ったりした。このような措置は断髪令同様、民心を怒らせた。
あちこちで衝突が起こり、騒乱となった。「国母(明成皇后)の仇も返すことができなかったというのに、白い喪服を脱ぐということは穏当ではない」という訴えが起こされ、ようやく取り締まりが緩和されたと黄(ファン)ヒョンの「梅泉野録(メチョンヤロック)」は伝えている。
APEC会談を終えた首脳が7色のトゥルマギを着て記念撮影をした。国際社会で平等の精神まで期待することは難しいとしても、およそどんな問題も道理どおりに解くべきであり、度がすぎれば解かなかったことより悪いという真理を首脳らに振り返ってほしいと期待するとしたら、度がすぎた願いなのだろうか。
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