映画『オデュッセイア』(2026)で、オデュッセウス(左、マット・デイモン)の軍隊は多人種の俳優が演じている。中央はインド系のヒメーシュ・パテル、右は韓国系のウィル・ユン・リー。[写真 ユニバーサル・ピクチャーズ]
◇教えようとする西洋文化産業
ところが、まさにこれが苦い逆説を見せる。映画は人種ごとの代表的な顔を「国連代表団」のように配置したが、主人公はあまりにもアングロサクソン的な顔をしたマット・デイモン演じるオデュッセウスだ。物語は西洋が自らのルーツとするギリシャ古典だ。非西洋人は独自文化の主体ではなく、西洋古典の普遍性を証明する飾りにすぎない。
西洋の急変する基準も疲労感を招く。例えば、ヘレネに劣らぬギリシャ神話を代表する美女アンドロメダは、南方アフリカ王国「アイティオピア」の王女であるにもかかわらず、長い間欧州系女優が演じながら「ホワイトウォッシング」を重ねてきたが、今ではギリシャ人のヘレネをアフリカ系女優が演じる。文化芸術界を主導する西洋のエリート進歩主義者たちは、これに疑問を呈する人々を人種主義者や「目覚めていない」人として追い立てる。何が正しい表現なのか、何が真の包摂であり多様性なのか、西洋文化産業が一方的にその都度決めて教えようとする。これに対する疲労感と反発心が、今日の混乱に一役買ったのではないか。映画の中のオデュッセウスは「我々自身がクセニアを自分たちに都合よく悪用し、文明の没落を招いた」と告白する。皮肉なことに、映画のキャスティングそのものがその言葉を証明している。
この状況で、BTSのようなKカルチャーは一つの代案だ。マギー・カン監督の『KPOPガールズ! デーモン・ハンターズ』も別の道を示している。西洋資本で作られたが、西洋が規定した「アジア性」の枠に自らを合わせなかった。K-POPの光と闇を内部者の視点から扱うことで、Kカルチャーは異国の他者ではなく主体となった。アジア女性アイドルがヒーローとして活躍することで、ハリウッドの宣言的な人種・性別キャスティングとは異なる、自然な「多様性」を見せた。
『オデュッセイア』が語った一つの文明の没落が現実なら、今こそKカルチャーが新しい文明に何を加えるのかを考える時だ。西洋の承認を渇望していた時代は過ぎた。だからといって、西洋化の恩恵を受け、西洋文明との混交によって生まれ変わった私たちが西洋を排斥する理由はない。もしかすると、私たちは新たな「海の民」になれるかもしれない。青銅器時代のミケーネ文明を滅ぼした「恐怖の海の民」ではなく、新たな文明とルールをともに築く「友好的な海の民」だ。
ムン・ソヨン/論説委員
【コラム】BTSのグラミー賞ボイコットと映画『オデュッセイア』の恩着せがましい多様性(1)
この記事を読んで…