1969年、中学校試験制がなくなり、生徒が出席する抽選制に変わった。 [中央フォト]
李承晩(イ・スンマン)政権当時の義務教育の実施で50年代後半、進学年齢の児童はほとんど全員が国民学校に入学した。中学校が不足する中、進学する児童が急増し、自然に入試競争が生まれた。当時の教育熱は現在にも劣らず、私教育ブームが社会問題になったりもした。
64年12月のソウル市の前期中学校入学試験では、いわゆる「大根おろし騒動」があった。自然(現在の科学) の18番の問題だ。「米から飴を作る。もし麦芽がなければ代わりに何を入れればよいか」。ジアスターゼ・大根おろし・蜜・澱粉の中から選択する問題だった。発表された正解は「ジアスターゼ」だった。しかし一部で「大根おろしも正解」という主張が出てきた。当時ソウル市のキム・ウォンギュ教育監は「大根おろしで飴になるならこの問題のために落ちた受験生は救済する」として揉み消そうとした。
名門に分類される京畿中、ソウル中、京畿女子中に志願して不合格となった生徒と保護者が積極的に抗議した。保護者らは実際に大根おろしを使って飴を作り、ソウル市教育庁の前で抗議デモを行った。これが受け入れられなかったため訴訟まで提起した。裁判所は専門機関の判断に基づき「大根おろしも正解」という判決を下した。当時、朴正熙大統領は事態の責任を問うて文教部次官、ソウル市教育監など高位職5人を解任した。
67年には私教育に苦しむ小学生4人が集団で1週間以上家出をした事件が新聞の1面を飾った。「もう私教育はさせないので早く家に返ってきなさい」と訴える親の記事が掲載された。当時、朴正熙は「勉強は高校で熱心にさせ、幼い子どもが過度な入試競争から抜け出し、心身を共に発達させられるようにするべき」と指示した。
◆「京畿高-ソウル大」出身長官が先導
その後も入試過熱の雰囲気はそれほど変わらなかった。制度が次々と変わった。朴正熙政権は刀を抜いた。69年、ソウルを皮切りに中学校入学試験をなくして抽選制に変えた。中学校入試に関連した各種問題の震源地だった京畿・ソウル・景福(キョンブク)・梨花(イファ)など、いわゆる14名門中学校を廃止する強硬姿勢も見せた。今では想像しがたい措置だった。71年、中学校無試験入学は全国に広まり、早期に定着した。
しかし今度は高校入試が問題になった。中学校入試の競争風土がそのまま移った。高校進学も無試験または内申制を導入するべきという主張が出始めた。政府は74年に「高校平準化政策」を進めた。試験を受けて成績順で生徒を選抜した方式ではなく、近距離配分、無作為抽選、志願後の抽選などの方法で通う高校が決まった。
皮肉にも学閥の頂点である「KS(京畿高-ソウル大)」出身の閔寛植(ミン・グァンシク)文教部長官がこれを進めた。閔長官は「80~90年代の韓国社会は少数エリート中心の社会でなく大衆社会になる。社会の発展を鈍化させる伝統的な象徴をなくすべき」とし、高校平準化導入の理由と方向性を説明した。閔長官は後に「俗称KSマークが出世の尺度になるという社会の誤った通念は国民総和に逆行するので政策を推進した」と述懐した。
ソウル・釜山(プサン)で始まった高校平準化は75年に大邱(テグ)・仁川(インチョン)・光州(クァンジュ)、79年に大田(テジョン)・全州(チョンジュ)・馬山(マサン)・清州(チョンジュ)・水原(スウォン)・春川(チュンチョン)・済州(チェジュ)など全国に拡大した。実際、政策的な名分とは別に、朴正熙と側近は学閥中心に形成された社会主流集団に良い考えを抱いていなかった。朴正熙は権力を握った直後から学閥、門閥、各種派閥をよく批判した。宗親会・門中会・郷友会はもちろん各種学会やクラブさえも派閥を形成し、国民を分裂させると考えた。普段からのこうした考えは高校平準化政策が出てくるのに影響を及ぼした。革命家らしい診断だったが、朴正熙も「博士の上に陸軍士官学校」という新たな階級を作ったという批判から自由でなかった。
とにかく高校平準化は朴正熙が常に口にしていた「貧しい農民の息子」らしい政策であり、執権時期の最も急進的な改革政策と評価される。特に冷酷な維新時代だったため、政府の政策は一瀉千里に施行された。過度な中学入試競争による社会的な弊害があまりにも激しかったため、世論の広範囲な支持にも後押しされた。
政府は高校平準化政策の一環としてソウルの従来の名門高を四大門の外に移転することも同時に始めた。いわゆる5大公立高のうち京畿高とソウル高、5大私立高では徽文(フィムン)・培材(ベジェ)・養正(ヤンジョン)・普成(ポソン)の4校を移転させた。
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