<創刊企画「大韓民国トリガー60」㉟>金大中大統領に経済回復の妙案問われ…孫正義「インターネット速度1000倍に上げよ」(1)
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2025.09.29 12:01
1998年2月、大統領に当選した金大中氏(右)がソフトバンクの孫正義会長と会った。[中央フォト]
金大統領「韓国経済を回復させる助言をお願いします」
孫会長「3つあります。最初にブロードバンド、2番目にブロードバンド、3番目もブロードバンドです。インターネット速度を1000倍高めるものです」
ゲイツ会長「100%賛成します」
金大統領「2人がそう言うのなら一度やってみます」。
それから3年も過ぎていない2001年2月9日、ソウルの韓国通信(現KT)社屋で超高速情報通信網基盤完成記念式が開かれた。金大統領は「世界で最も先を行く全国的な超高速情報通信網を構築した。京釜(キョンブ)高速道路開通が70年代の産業化のスタートだったように、きょうの情報高速道路の完工は21世紀知識情報強国に向けた歴史的な出発点」と話した。
未来学者アルビン・トフラーもやはり金大中大統領に出した報告書で「韓国は低賃金経済を土台にした従属国として残るのか、そうでなければ知識基盤経済で世界を主導する国になるのかという選択の岐路に立っている」と指摘した。こうした決定的瞬間に28兆ウォンを投じて構築した超高速情報通信網は2000年代に韓国が「ITコリア」としてそびえ立つ契機(トリガー)となった。
◇鉄道電算網が開いたPC通信時代
韓国の情報通信網のルーツは意外にも鉄道庁だ。鉄道電算網は1971年に登場した。ある駅で切符を売るとすぐ別の駅でどの座席が残っているのか確認できるなどの機能だった。これが73年に官庁間で書類をやりとりする政府統合電算網に拡大し、86年に企業などに通信網を買い出す商業サービス「KETEL」へと続いた。電話線を利用して14.4kbpsの速度でデータを伝送し、「ハイテル」や「千里眼」などPC通信時代を開いた。データがGbpsでやりとりされる現在と比較すると10万分の1程度にしかならない速度だ。あまりに遅いが料金は1分当たり46ウォンととても高かった。そのためPC通信はテキスト中心の掲示板、同好会、チャットサービスが主流だった。
韓国の通信網が世界とつながったのは90年3月24日だった。韓国インターネットの父と呼ばれる全吉男(チョン・ギルナム)博士が韓国科学技術院(KAIST)と米ハワイ大学の電算網を連結した。アジア初、世界では米国と英国に続き3番目にサイバーワールドに合流したのだ。
94年に当時の金泳三(キム・ヨンサム)大統領は「10年以内に全国超高速通信網を構築する」という計画を発表した。ゴア米副大統領が出した「インフォメーションスーパーハイウェイ」構想をまねたものという批判もあったが、インターネット商用サービスが始まるなど着実に発展した。逓信部を改編して電子・通信技術を総括する情報通信部ができたのもこの頃だ。
通貨危機の混乱の中で執権した金大中大統領はゲイツ氏と孫氏の提案を受け入れ超高速網普及とインターネット活性化を経済再生の核心とした。ここでもう1人の先駆者が登場する。大宇電子社長を務めた裵洵勲(ペ・スンフン)情報通信部長官だ。当時大衆的な超高速網技術は米国や日本などが使う総合情報通信網(ISDN)だった。既存の電話線を利用してコストはあまりかからないが、最高速度は128kbpsにすぎなかった。PC通信より10倍近く速いとはいえ、動画までやりとりするのは無理だった。裵長官は「全羅南道木浦(チョンラナムド・モクポ)の高校3年生が江南(カンナム)の予備校の授業を受け、全羅北道(チョンラブクド)に住むおばあさんが有機農米をソウルの金持ちの家に高く売ろうとするならもっと速いネットワークが必要だ」と大統領を説得した。結局理論上でISDNより100倍速い非対称デジタル加入者回線(ADSL)を全国に敷くことができた。ケーブルテレビ網などを活用するADSLは米国のベル研究所が開発したが、世界でどこも商用化していない技術だった。これを韓国が果敢に採択し世界最高の通信網を構築した。2005年からは銅線の代わりに光ケーブルが敷かれ、すべての家まで光ケーブルがつながるファイバー・トゥ・ザ・ホーム(FTTH)のギガネットワーク時代に続いた。
<創刊企画「大韓民国トリガー60」㉟>金大中大統領に経済回復の妙案問われ…孫正義「インターネット速度1000倍に上げよ」(2)
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