1963年6月、「適切に産んで立派に育てよう」というスローガンを掲げた第1回家族計画全国大会が赤十字社大講堂で開かれた。 [中央フォト]
韓国の人口変遷は他国では見られないほど驚きの連続だった。合計特殊出生率が0.75(2024年基準)で世界最低だ。しかしベビーブーマーが生まれた1960年代初めには6を上回っていた。戦後の劣悪な環境で出生直後または数年後に死亡する子どもが多く、出産も多かった。出生届が遅れる慣行も無関係ではなかった。
当時の政府は産児制限に死活をかけた。「むやみに産めば乞食の姿を免れない」と書かれたポスターがあちこちに貼られていた。1984年に出生率が1.74となり低出生率国家に進入したが、1990年代後半にようやく政府の政策は出産奨励に変わった。80年代半ばから40年間、韓国の出生率は下降線をたどった。60年間で出生率が6人から1人未満まで下落した国は韓国が唯一だ。
経済状況が良くなれば出生率も上昇するだろうという期待の声をよく耳にする。しかし景気が良ければ出生率が上がるわけではない。出生率が下落したのは、結婚適齢期の青年がソウルに集まり「競争の強度」が高まったからだ。韓国でその大半はソウルを中心にした首都圏に拠点を置こうとする。他の都市国家(シンガポール、香港、マカオなど)でも似た特性が表れる。こうした都市国家は出生率がすべて1未満だ。
韓国は人口の首都圏集中が世界のどの国よりも目立つ。1970年の人口センサスによると、全国2626万人のうちソウル・京畿(キョンギ、仁川含む)には約754万人(28.7%)が暮らしていた。釜山(プサン)には159万人(6.1%)が居住した。54年が経過した2024年の総人口は4976万人(内国人基準)に増えた。このうち首都圏居住者は2513万人(50.5%)にのぼる。
過去には地方の国立大や名門高への進学も多かったが、現在は子どもをソウルに送ろうとする。就職もソウルと首都圏を中心にする傾向が強い。このため青年は結婚や出産よりも、激化した競争の中で「生存」が最も重要な点になった。米国、フランス、日本のように首都以外の都市に人口が分散している国々とは違い、韓国は人口の集中で競争があまりにも激しいため、出生率が低下するしかないのが現実だ。
平均寿命(期待寿命)の変化も劇的だ。1970年の平均寿命は男性58.7歳、女性65.8歳だったが、2023年には男性80.6歳、女性86.4歳となった。50年余りの間に男性は22歳、女性は21歳も上昇した。上昇の速度は世界屈指だ。
◆男児選好から女児選好に変わった唯一の国
何よりも劇的な変化は男女比の転換だ。正常な性比は女児100人あたり男児104~106人だ。1980年代の超音波導入後、胎児性鑑定識別が可能になると、男児選好が出生性比にそのまま反映され、1990年には116.5まで上昇した。第1子が女児なら第2子、第3子は必ず男児を産まなければいけないという圧力があり、第3子の性比はなんと189.9に達した。しかし2024年の出生性比は105と正常範囲であり、第3子の性比は102.9とむしろ低い。中国・インド・ベトナム・ネパール・イランなど伝統的に男児選好が強い国は少なくないが、男児選好から女児選好に変わった事例は韓国が唯一だ。
振り返ると、家族計画そのものの功過はともかく、政府が政策のキーを果敢に回せず時期を逃した瞬間は3度あった。最初は1989年だ。当時の特殊合計出生率1.56はすでに少子化を目前にしていたが、政府は慣行のように出産抑制中心の家族計画を継続した。1984年以降の出生率は1人台に下がって反騰せず、出生数も1982年の84.8万人から1987年には62.4万人へと22万人も減少した。乳児の死亡率も1980年の新生児1000人あたり17人から1988年には8人に急減したため、出生率が自然反騰する理由も考えにくかった。同年、日本は合計特殊出生率1.57を「1.57ショック」と命名し、1990年から本格的な対応に入った。韓国もその地点で抑制政策を終えて人口政策の軸を変えていれば、今日のような年間20万人台の出生は避けることができたかもしれない。
<創刊企画「大韓民国トリガー60」㉛>60年間で「出生率6→0.75」…人口の崖を防ぐ機会3度逃した(2)
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