2000年6月13日、南北首脳会談のために平壌順安空港で金大中(キム・デジュン)大統領と金正日(キム・ジョンイル)総書記が明るい表情で歴史的な握手を交わした。 [中央フォト]
金大統領はソウル空港を離れる前、「民族を愛する熱い胸と現実を直視する冷静な頭を持って訪問しようと思う」と述べた。そのような考えは2泊3日の平壌日程の最終日に発表された共同宣言にそのまま反映された。統一問題の自主的解決、民族経済の均衡発展と社会・文化・体育・保健・環境分野の協力、交流活性化などだ。これはただの言葉だけの宣言ではなかった。その後の南北関係を規定する大綱だった。首脳会談の後、開城(ケソン)に韓国企業が運営する工業団地が建設され、2005年から北朝鮮が4回目の核実験をする直前の2015年までの11年間、南北貿易額は毎年10億ドルを上回った。南北を行き来した人員は年間10万人を超えた。
緊張緩和ムードを受け、国際格付け機関ムーディーズは2002年3月、韓国を「Baa2」から「A3」へと2段階格上げした。地政学的理由による、いわゆる「コリアディスカウント」が一部解消された。韓半島(朝鮮半島)に形成され始めた平和の力だった。
首脳会談はもちろん一日で実現したわけではない。1994年に金泳三(キム・ヨンサム)大統領と金日成(キム・イルソン)主席が会う機会があったが、金主席が会談の17日前に死去し、実現しなかった。90年代後半に入って南北首脳は会談に積極的だった。ここには「同じ民族」という点だけでなく、現実的な理由もあった。北朝鮮は「苦難の行軍」と呼ばれる経済難から抜け出すことが急務だった。しかし経済・外交的に北朝鮮を支援するという友邦はなかった。旧ソ連が解体したのをはじめ、社会主義政権は次々と没落し、中国も修交後に韓国と密着した。突破口は同じ民族、韓国だった。ちょうど金大中政権も「太陽政策」を掲げていた。
韓国も通貨危機から早期脱出するために南北関係の安定が必須だった。ドルが入ってくる最も良い方法が海外投資の誘致だったからだ。韓半島の緊張緩和なしに大規模な海外投資は期待するのは難しかった。
民間でも交流協力の雰囲気が形成され始めた。98年6月16日、鄭周永(チョン・ジュヨン)現代創業会長が北に贈る牛を連れて北を訪問し、金剛山(クムガンサン)観光も始まった。
首脳会談の準備は着々と進んだ。もちろん金日成主席の遺体が安置された錦繍山記念宮殿(現錦繍山太陽宮殿)参拝を北側が主張するなど(後に撤回)紆余曲折もあったが、ついに4月8日に合意に至った。
◆韓国では「一方的に与えるばかり」という批判世論も
6・15共同宣言後、南北は多くの高官級・実務会談を行い、交流・協力を加速させた。南北の接触面が増えると、北朝鮮内部でも変化が始まった。情報技術(IT)産業で一挙に経済の飛躍させるという「新思考論」が2001年に登場し、翌年にはいわゆる「市場」を許容するなど資本主義市場経済要素の一部を受け入れた「経済管理改善措置」(7・1措置)を実施した。また韓国に対する敵対視から抜け出し、「自分たちを支援するわが民族」という認識が北朝鮮内部に広まったりもした。
6・15共同宣言の直後、韓国国内で批判世論が強まったのも事実だ。「経済的に与えるばかりで安保に役立った点があるのか」ということだった。世論を意識した金大中大統領は2000年8月末に平壌で開催された2回目の南北長官級会談を控え、当時の朴在圭(パク・ジェギュ)統一部長官を呼び出した。「経済協力と安保協力の速度を合わせるよう北を説得するべき」という指示だった。
平壌を訪問した朴長官は軍事直通電話の設置などを提案した。しかし北朝鮮は「6・15共同宣言にない内容」として拒否した。朴長官は北朝鮮の形式上の国家首班である金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長との面談を拒否しながら「金正日総書記に直接会いたい」とし、引き下がらなかった。2日後、朴長官は北朝鮮が特別に準備した夜行列車に乗り、8時間後の翌日未明、慈江道の江界(カンゲ)で金正日総書記と会った。そして南北国防長官会談、軍事ホットライン設置、開城工業団地事業など約10件の合意を引き出した。
南北の最初の首脳会談で統一に一歩近づく雰囲気が生じたが、南北関係は順調に進んだわけではなかった。合意した会談が短くは1カ月、長ければ1年以上も延期となる冷却期もあった。何より2002年に第2延坪(ヨンピョン)海戦が発生した。その後、北朝鮮は統一部に「偶発的に発生した武力衝突事件について遺憾に思う」という謝罪文を送ってきた。
金大中政権の後、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権から今にいたるまで南北関係はまさに温湯と冷湯を行き来した。盧武鉉政権だった2006年10月9日に北朝鮮が最初の核実験を実施し、韓半島(朝鮮半島)には荒波が立った。そして翌年、2回目の南北首脳会談が開かれた。韓国哨戒艦「天安」爆沈事件と延坪島砲撃戦が発生した李明博(イ・ミョンバク)政権当時は対立一辺倒だった。2008年に金剛山観光客パク・ワンジャさんが北朝鮮軍に射殺される事件が発生し、金剛山観光は中断した。
朴槿恵(パク・クネ)政権では2014年仁川(インチョン)アジア競技大会に北朝鮮が参加した。翌年1月の「新年の辞」で金正恩国務委員長は「南北関係の歴史を新たに刻まなければならない。最高位級会談もできない理由はない」とし、首脳会談の用意を示唆した。しかし2016年初めに北朝鮮がまた核実験を実施し、長距離ミサイルを次々と発射すると、韓国政府が開城工業団地の稼働を中断した。南北関係の象徴だった金剛山観光と開城工業団地は死亡宣告を受けた。
悪化の一途だった南北関係は2018年平昌(ピョンチャン)冬季オリンピック(五輪)に北朝鮮が参加して流れが変わった。その年に3回の首脳会談が行われた。しかし2019年2月にベトナム・ハノイで開催された2回目の朝米首脳会談が決裂し、南北関係はまた急激に悪化した。対北朝鮮ビラ散布などを理由に2020年、北朝鮮は開城の南北共同連絡事務所を爆破した。一時は年間10億ドルを超えた南北貿易と10万人以上だった南北の往来は尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権に入って「0」になった。北朝鮮は2023年末に南北関係を「交戦中の敵対関係」と規定し、昨年10月には南北をつなぐ京義線(キョンウィソン)と東海線(トンヘソン)国道を断った。
◆金正恩・トランプ会談、年内に開かれるのか
昨今の韓半島は戦争もないが、平和もない状態だ。周辺列強の米国と中国の間では葛藤と競争が続いている。トランプ米大統領はまた金委員長にラブコールを送っている。25日にホワイトハウスで開かれた韓米首脳会談で、トランプ大統領は「年内に金正恩委員長とまた会いたい」と述べた。北朝鮮は両首脳間の関係を認めながらも「核保有を認める」ことなどを条件に提示している。同時に金正恩委員長は中国戦勝節行事に出席して首脳会談をするなど、朝中ロ同盟の強化を通じて韓半島の緊張を高めている。注目されるのは10月10日の北朝鮮の党創建80周年軍事パレードと来年1月の第9回党大会だ。軍事パレードで新型武器をどれほど誇示するのか、また党大会で対南・対米政策に関する調整信号が出てくるかなどが今後の南北関係の方向舵になるだろう。トランプ大統領の会談要請に金委員長が呼応するかも関心事だ。
英国の歴史学者エドワード・カー氏は「歴史とは現在と過去との対話」と言った。過去の良い点は継承し、不足した点は改善しながら歴史は発展する。過去を見ると、南北は対話の中で北朝鮮の核戦争力緩和のような解決策を見いだし、対決の中では害悪が訪れた。
6・15共同宣言は韓半島の平和と統一の可能性を見せた事件だった。わずか数年間ではあったが、我々は6・15がもたらした平和の力を感じた。李在明大統領は光復(解放)80周年の祝辞で6・15共同宣言など従来の南北合意を尊重すると明確にした。北朝鮮も協力的共生が互いにウィンウィンする本質だという点を必ず想起することを望む。手のひらも接してこそ音が出る。「知彼知己」でなく「易地思之」の姿勢が問題解決の呼び水となる。対話チャンネルの復元を通じて南北の手のひらの音がまた聞こえてくることを期待したい。
梁茂進(ヤン・ムジン)/元北朝鮮大学院大学校総長
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