慶尚北道安東市法興洞の臨清閣君子亭 キム・ジョンソク記者
現在は一部残された線路とタイル張りの線路の絵だけがある。政府が総事業費280億ウォン(約30億円)を投入して線路を撤去し、鉄道の開設で毀損された臨清閣周辺の地形と家屋を復元する作業を進めているからだ。鉄道があった場所には広い散歩道が造成されていた。
◆日帝が敷設した線路を80年ぶり撤去
臨清閣は2019年の三一独立運動100周年に向けて復元に入った。2020年12月16日午後7時35分に最後の列車が通過した後、80年間にわたり臨清閣の前の洛東江(ナクドンガン)景観を遮っていた鉄道は撤去された。駐車場から臨清閣につながる散歩道の脇は依然として工事が続いている。「安東臨清閣歴史文化共有館」を建設する工事だ。本来、光復(解放)80周年を迎える今年、歴史文化共有館を建設して臨清閣の家屋2棟の復元を終えようとしたが、年内の完工は難しい。臨清閣は1519年に刑曹佐郞を務めた李洺(イ・ミョン)が建立した。
臨清閣の名称は「東の丘に登って長く口笛を吹き、澄んだ小川のほとりで詩を作る(登東皐以舒嘯 臨清流而賦詩)」という中国の詩人・陶淵明の詩句に由来する。臨清閣の周辺は嶺南(ヨンナム)山を背に洛東江が流れる典型的な背山臨水地形だ。
固城李氏(コソン・イシ)宗宅の臨清閣は本来99間の邸宅だったが、線路が敷設されながら約50間が取り除かれた。日帝は1942年2月、悪い朝鮮人という意味の「不逞鮮人」が住む家だとして意図的に線路を敷設した。残りの約50間も振動と騒音で大きく毀損された。
◆初代国務領、石洲・李相竜の生家
臨清閣は「ノブレス・オブリージュ」の象徴、石洲・李相竜(イ・サンリョン)先生(1858-1932)が生まれたところでもある。儒学者として旧韓末の抗日義兵運動に積極的に加担した後、協同学校の設立に参加し、愛国啓蒙運動に力を注いだ人物だ。
李相竜は1911年1月、財産を処分して確保した独立運動資金を持って約50人の家族と満州に行った。その後、西間島地域に抗日独立運動団体の耕学社を設立し、新興武官学校の前身となる新興講習所を建てて独立軍を養成した。1925年に初代国務領を務めたが、分裂した独立運動界に懐疑を抱いて再び間島に戻り、武装抗日闘争に努力した。
李相竜は結局、祖国の光復(解放)を見ることができず1932年5月に吉林省舒蘭で74歳の年齢で殉国した。「国を取り戻す前には私の遺骨を故国に持っていくな」という遺言を残し、遺骨は解放後にも長く他国に埋葬されていたが、1990年に故国に戻って安置された。
99間の邸宅を半分にした鉄道を撤去、独立運動産室「臨清閣」復活記(2)
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