1960年の4・19革命は不義に対抗する韓国の民主化運動の呼び水の役割をした。4・19当時の人波。戒厳軍の戦車の上に市民が上がっている。[中央フォト]
「悠久な歴史と伝統に輝くわれわれ大韓国民は3・1一運動で建設された大韓民国臨時政府の法統と不義に抵抗した4・19民主理念を継承し…」。1987年の憲法前文はこのように始まる。
この前文は韓国現代史で4・19革命が持つ意義をしっかりと見せてくれる。1945年の解放後に韓国に付与された時代精神は「国作り」だった。それは貧困から抜け出そうとする経済的産業化と、人権と民主主義を享受しようとする政治的・社会的民主化で具体化した。4・19はこの民主化の原形的体験を成し遂げた社会運動だ。
どんな社会運動であっても一気には爆発しない。運動の前史、進行過程、長久な影響があるものだ。4・19も同じだ。4・19は政治史的時間では1960年3~4月に起きたが、社会史的時間では1953年の韓国戦争(朝鮮戦争)終戦から1960年の3・15不正選挙に至る時期に準備された。
質問を投げかけることができる。1950年代にどんなことが起きて韓国戦争が終わってから7年後の1960年に4・19という巨大な社会運動が噴出したのだろうか。4・19の一次的原因としては独裁に帰結された李承晩(イ・スンマン)政権の権威主義統治を挙げられる。だが政治的抑圧が強化されたからといって社会運動が自ずと爆発するものではない。
◇米国式民主主義に対する熱望
1950年代に韓国市民社会は着実に成長してきた。米国式社会制度の拡散、比較的高い教育水準、メディアなど公論の場の成長は西欧の自由民主主義に対する市民社会の要求を自然に増大させた。ところが李承晩政権は権威主義統治を強化して民主主義の手続きを後退させた。市民社会の要求が政治社会にまともに反映されない場合、政治対立の様相は国に対抗する市民社会の抵抗として現れるほかない。韓国でその最初の抵抗は4・19で爆発した。
4・19の進行過程は3つの時期に区分できる。最初は60年2月28日の大邱(テグ)高校生デモから4月26日の李承晩大統領下野までだ。この時期に3月15日と4月11日の2回にわたる馬山(マサン)デモ、4月19日にソウルで学生と市民が主導した大規模デモ、そして4月25日に教授団が行ったデモは結局李承晩大統領を権力の座から退かせた。
2番目は許政(ホ・ジョン)暫定政権で内閣制改憲と7月29日の総選挙が行われた時期だ。この時期には市民社会の爆発に政治社会の変動がともなった。自由党は一挙に没落したのに対し、民主党内の旧派と新派の対立が本格化し、革新系勢力が総選挙に積極的に参加した。総選挙は民主党の圧勝に帰結した。
3番目は張勉(チャン・ミョン)政権の時期だ。張勉政権は民主主義制度化と自立経済樹立を模索したがその基盤は弱かった。この時期に特記すべきことは、統一運動と労働運動の成長だった。統一運動は革新系勢力と学生運動の一部勢力によって主導され、労働運動では教員労組運動が社会的関心を集めた。
政治学者のコ・ウォンは4・19に対する解釈を「市民的・自由主義的観点」と「民衆的・変革的観点」に分けた。前者の観点が4・19に含まれている自由民主主義的特性を印象付けるならば、後者の観点は従属資本主義が産んだ疲弊化した民衆生活を強調する。
歴史に対する解釈は開かれているものだ。政治学者の崔章集(チェ・ジャンジプ)は4・19の中心勢力が米国式自由民主主義の理想と価値、それに立脚した制度化に一次的に関心を持ったと分析した。これに対し経済学者のパク・ヒョンチェは民衆自身ではなく学生たちの代理革命であり、未完の民衆革命だと主張した。4・19の原因と勃発に注目すれば、崔章集の分析の説得力が高く、3つの時期の全過程に注目すればパク・ヒョンチェの主張もまたそれなりの根拠を持っている。
4・19が「政治蜂起なのか、革命なのか」は古くから提起されてきた問題だ。革命が政治的・経済的構造変化を意味するというものならば、こうした変化が存在しなかった点で4・19を「革命」と命名しにくいかもしれない。この点で4・19は「革命」よりむしろ「政治蜂起」ないし「民衆抗争」に近いかもしれない。
◇「国の世紀」と「国民の世紀」
ところが多くの人は4・19を「革命」と呼んでいる。なぜだろうか。ここには4・19に込められた2種類の歴史的意味に注目することができる。最初に、4・19は分離体制成立と韓国戦争勃発で断絶した民主主義と民族統一に対する熱望を再び噴出させた。2番目に、4・19は5・16クーデター後の反独裁民主化運動に持続的に大きな影響を及ぼした。民主主義に向かった4・19の時代精神と集合行動は4・19を「革命的社会運動」にみえさせる。要するに、4・19は学生と市民が中心をなした「市民革命」であり国民が国の主人であることを確認した「民主革命」であると評価できる。
民主化はもともと二重の過程で進められる。一方は民主主義制度の定着で、もう一方は革命など社会運動の噴出に現れる。韓国の現代史で4・19が持つ意義は下からの社会運動が成功した最初の歴史的経験だったというところにある。成功した社会運動であるだけに4・19は70年代の維新反対運動、80年の5・18民主化運動、87年の6月民主化運動に大きな影響を及ぼした。さらに4・19の主導理念である民主主義と民族主義は1960年代以降の反独裁・反外国勢力社会運動の理念的基盤を提供し、4・19に対する集合的記憶はその後国に対抗する市民社会の抵抗で精神的共感の源泉となってきた。
振り返れば、光復後の大韓民国80年は「国の世紀」であり「国民の世紀」だった。先述したように韓国の歴史的課題は現代的国民国家形成にあった。「国主導の産業化」は国の世紀を、「国民主導民主化」は国民の世紀を証明した。60年代はこの国の世紀と国民の世紀が本格化した時代だった。まず4・19は国民の世紀が始まったことを、続く経済開発5カ年計画は国の世紀が始まったことを告げた。
2016~2017年の「ろうそく市民革命」と2024~2025年の「光の革命」も4・19の延長線上に置かれている。この2つの社会運動は何より権威主義政権を拒否し民主主義国を要求した。国家権力は国民から出て国の主人は国民という国民主権の原理は4・19革命、6月民主化運動、ろうそく市民革命、光の革命を導いた原動力だった。この点で4・19革命はその精神が21世紀のいまも現在進行形であると見ることができる。
◇ ◇
金洙暎と申東曄、そして金光圭…文学で花開いた4・19
4・19を扱った代表的な詩としては金洙暎(キム・スヨン)の『青い空は』と申東曄(シン・ドンヨプ)の『殻は去れ』がある。金洙暎は4・19に込められた「現実的自由主義」を、申東曄は「民衆的民族主義」を詠んだ。
「自由のために飛翔したことがある/者なら知っているだろう(中略)どうして自由には/血の匂いが混じっているのかを/革命とは/なぜ孤独なものなのかを」(1960年、『青い空は』)
「殻は去れ。/四月も中身だけ残して/殻は去れ。(中略)漢拏山から白頭山まで/香ばしい土の胸だけ残し/すべての金属は去れ」(1967年、『殻は去れ』)
金光圭(キム・グァンギュ)の『ほのかな昔の恋の影』は4・19が起きて18年が過ぎてからその時期をともに過ごした友と会い4・19の意味を淡々としながらも痛く再確認する。
「私たちのかつての愛が血を流した場所に/見慣れぬ建物が不気味に建ち並び/プラタナスの街路樹はいまもそこに立ち/まだ残っているいくつかの枯れ葉が揺れ/私たちをうなだれさせた/恥ずかしくないのか/恥ずかしくないのか」(1979年、『ほのかな昔の恋の影』)
4・19は政治的に挫折したとしても社会的・文化的には成功した革命とみられる。4・19に込められた自由主義と民主主義、そして民族主義は韓国文学に新しい命の息を吹き込んだ。
金皓起(キム・ホギ)/延世大学社会学科名誉教授
この記事を読んで…