忠州(チュンジュ)肥料は、1950年代に援助を受けて工場を建設した中で最大のプロジェクトだった。1959年には国連のウィリアム・ワン経済調整官(写真手前)らが、完成間近の忠州肥料工場を視察している。[写真 韓国国家記録院]
「怨魂の祖国よ/お前を今まで守ってきたのは悲鳴だけだった」
詩人・具常(ク・サン)は『焦土の詩』で、韓国戦争が終わろうとしていたころの様子をこう詠んだ。そう、戦争は悲劇だ。民間人68万人と韓国軍16万人が死亡または行方不明となった。家族や親戚、友人が失われた。建物や施設といった資産の被害額は、調査で分かっているだけで13兆ウォン(2020年価格基準、現レートで約1兆4000億円)に達した。物質的な面だけでなく、精神的にも大韓民国は荒廃していた。隣人の間で、時には家族の間でさえ敵対や密告が蔓延した。
経済学者であるカナダ・ブリティッシュコロンビア大学のネイサン・ナン教授は、奴隷貿易時代の誘拐や略奪による社会的信頼の崩壊が、アフリカ地域で現在も続いていることを統計的に証明した。韓国戦争もまた、それと同様の衝撃を韓国社会に与えたのではないだろうか。
我々はその廃墟から立ち上がった。経済的にその原動力となったのは、米国の莫大な援助だった。戦争によって韓国が自由民主主義陣営にとって決して失われてはならない最前線に浮上し、経済援助の規模は大きく拡大した。しかし、それを「成長のトリガー(決定的契機)」としたのは、我々自身だった。韓国以上の援助を受けた開発途上国の中で、成長神話を実現した国は非常に稀だ。特に企業の役割が重要だった。
休戦を目前にした1953年6月、米国のアイゼンハワー大統領のもとにいわゆる「タスカ(Tasca)報告書」が届いた。「米国の安全保障上の利益は、韓国経済の強化を要求する」という書き出しで始まるこの報告書は、韓国陸軍を直ちに16個から20個師団に拡充・維持するための経済的基盤を整えるべく、3年間で無償援助約9億ドル(現レートで1332億円)を提供することを提案していた。それは、食糧を与える単なる「救援援助」ではなく、経済自立の基盤構築を目的とした「経済復興援助」だった。
経済復興援助の最盛期だった1955年から1960年まで、米国は毎年2億ドル以上を提供した。援助の約30%は、鉄道・発電所・通信・上水道などさまざまなインフラプロジェクトに投入された。韓国人を米国に派遣して教育を受けさせることも含まれていた。その中に国立ソウル大学の再建を目的とした「ミネソタプロジェクト」があった。ソウル大学の教授218人が平均18カ月間、米国ミネソタ大学で教育を受けた。
経済復興援助の残り70%は、主要産業に不可欠な投入材、すなわち肥料・原綿・レーヨン糸・化学原料などに充てられた。1955年から1960年の6年間で、援助による輸入の比率は韓国全体の輸入額の77%にも達した。これにより関連産業が急速に発展し、1960年代の輸出に重要な役割を果たし、これが高度成長の基盤となった。
経済援助をその後の高度成長へとつなげた橋渡し役は企業、そして企業で経験を積んだ人材だった。援助を積極的に活用しつつ、それに甘んじることなく、世界市場へと進出することを夢見た企業人や専門人材の成長こそが、韓国と他の途上国との違いだった。
忠州肥料はその代表例だ。忠州肥料は3300万ドルが投入された1950年代製造業関連援助の中で最大規模のプロジェクトだった。これは肥料の自給を可能にしただけでなく、石油化学工業の発展にも寄与した。1960年代末の蔚山(ウルサン)石油化学団地の建設は、大韓石油公社と忠州肥料が主導し、新設企業には忠州肥料出身の人材が多数参加した。
サムスンやLGの成長の背景にも援助があった。主に投入材を、時には機械を落札して生産を拡大した。米国国立公文書記録管理局(NARA)の資料によると、1957年の約4カ月間、サムスン物産は83万ドル相当を落札し、民間企業のうち第2位、樂喜化學工業社(現・LG化学)は40万ドルで第8位だった。第1位は穀物と肥料を輸入していた大韓ヤンビ(89万ドル)だった。
上位企業の中で輸入に専念していた企業は、1960年代以降に淘汰されるか後退し、サムスンやLGなどが韓国を代表する企業へと成長した。当時、入札によって援助資金が配分されたため、政財癒着が入り込む余地も少なかった。1957年には小口ながら援助物資を受け取った企業が約800社にも達し、入札の平均競争率は2:1だった。
韓国戦争は労働力の進化にも寄与した。多くの農村男性が軍隊式の規律を経験した。自由に働く農民は、決まった時間に働く都市の職場文化になかなか適応することができなかった。欧州でも農民が産業労働者へと変わるのは簡単ではなかったが、韓国では義務教育と男性の軍隊経験がその変化を後押しした。
女性の労働参加も拡大した。梨花(イファ)女子大学韓国女性研究院のキム・ミソン研究教授は『女社長の誕生』の中で、「女性が頻繁に市場へ出て商売を始めたのは韓国戦争からだった」と記述した。戦地に赴いた男性の代わりに女性が生計を立てなければならなかったからだ。1957年に実施された『ソウル市婦女職業調査』では、西大門区(ソデムング)、弘恩洞(ホンウンドン)、永登浦区(ヨンドンポク)そして文来洞(ムンレドン)では夫を亡くした女性73人のうち、約半数の31人が行商や食料品店を営んでいた。
当時、男性は女性の労働参加を好意的に見ていたわけではなかった。1960年の雑誌『家庭教育』にはこう記されている。「今、市場の8割は女性が商店主として主導権を握っている。女性の性格は急速に男性化している。引っ込み思案だとか恥じらいなどという言葉は、もはや女性には当てはまらない」。
医療・建設分野でも、戦争と援助は発展を刺激した。軍医として参戦した大韓医師協会のムン・テジュン元会長は「米軍の軍医から教育を受け、輸血や麻酔を含む外科手術の経験を積み、予防教育や患者の搬送システムもこの時に発展した」と回想している。建設分野では、現代建設の例が示すように、米軍工事や援助工事の受注を通じて国内企業が経験を積むことができた。
歴史学者である米スタンフォード大学のイアン・モリス教授は、「戦争は人類最大の悲劇であると同時に、進歩を促す最大の動因である」と述べている。残酷な悲劇だった韓国戦争もまた、一方ではそのような推進力として作用したといえる。いや、むしろ「我々が」それを原動因としてうまく活用したのだ。歴史の転換期に立った今、もう一度韓国と韓国人の力が発揮されることを期待したい。
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