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【コラム】新たな“オリジナル”を生み出したK-POP

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

Netflixのアニメ映画『K-POP! デーモン・ハンターズ』

「えっ、これ本物みたい…」。『K-POP! デーモン・ハンターズ』(以下、『デーモン・ハンターズ』)を見た人なら、誰もがそう口にしたに違いない。K-POPファンであっても、そうでなくても同じだ。HUNTR/X(ハントリックス)やSaja Boys(サジャボーイズ)がステージで披露する完璧な隊形、カメラが360度回転しながらとらえるダイナミックな振り付けによって再現されたK-POPは米国のアニメの中に登場する架空のアイドルに対して期待される水準をはるかに超えていた。熱心なK-POPファンならその再現度の完成度に共感し、初心者は耳にすっと入ったきり耳を離れようとしない曲を聴きながら、なぜ世界中がK-POPに熱狂するのか一瞬で理解できただろう。

BBCは『デーモン・ハンターズ』について「本物のようだ(Authentic)」と評価し、他のメディアも「K-POPの心臓と魂が込められている」と伝えた。つまり「本物の」K-POPということだ。「本物」と呼べるということは、「偽物」と区別できる「オリジナル」が存在するという意味でもある。韓服やカッ(伝統的な帽子)、トラ、陶磁器のように、私たちが本物と偽物を簡単に見分けられる伝統文化があるように、K-POPも真贋を判別できるほど、はっきりとしたアイデンティティを確立したということだろう。


思い返してみれば、どれほど長い間、私たちはハリウッドの大衆文化の中でステレオタイプとしてとどまってきたことだろうか。韓国人の顔をしていない韓国人、韓国語を話せない韓国人、せいぜいキムチやコンビニの店主として記憶される程度の存在としてだ。しかしここ20~30年間、米国の大衆文化を「オリジナル」として学び、研鑽を重ねた結果、K-POPはそのステレオタイプの枠を打ち破り、新たな「オリジナル」を生み出した。今やそれが米国に戻り、米国の文化の中にしっかりと根を下ろしたことを、『デーモン・ハンターズ』が証明している。『デーモン・ハンターズ』を観る韓国人としての特別な感慨は、まさにそこにある。私たちが創り出した文化的文法が、これほど精巧に再現されるのを見ながら、自分たちの作ったものを改めて見つめ直す誇らしさだ。


映画は表面的な記号だけを用いたわけではない。ソファに寄りかかり、リビングの床に座って紙ナプキンを敷き、箸を取り出してカップラーメンをすするシーンのような細かなディテールも正確であるが、もっと重要なのはK-POPが持つ情緒的なコードまで映し出したという点だ。

K-POPアイドルとファンダム、そしてこの産業の性質も、華やかな外見を超えて、その二面性を描いている。「完璧でなければならない」という強迫観念や、チームワークの重要性など、K-POPに内包された本当の物語を描き出している。K-POPを単に表面的な要素として扱うのではなく、敬意を払いつつも本気でその文化を見つめようとした。本物のK-POP、本物の韓国文化に対する愛情と献身をもって、その内面に込められた深い感情を真剣に探求したのだ。監督は「韓国語を話す人々の口の動きまで正確に描こうとした」と語った。そして「韓国文化へのラブレターを書くつもりで映画を作った」と話した。そのような気持ちが伝わったからこそ、この映画は世界中の心をとらえたのだ。映画を観た世界中の少女たちが、『アナと雪の女王』の『Let It Go』で2013年を覚えているように、『Golden』を2025年の思い出の歌として記憶することになるかもしれないと思う。 

この映画が米国で制作されたという事実は、文化の流れが一方向だけではないということを思い出させてくれる。映画が消費される過程は、単なるコンテンツの消費ではなく、文化的感覚が循環する構造であることを示している。

たとえば、BTS(防弾少年団)のJUNG KOOK(ジョングク)が『デーモン・ハンターズ』を観て涙を流したというエピソードを思い出す。彼は「ルミが一人で“魂の門”を作ると言ってスタジアムに駆け出して行ったとき、涙が流れた」と語った。これまで多くの海外ファンがBTSを観てリアクション動画を作ってきたが、その主人公が今度は逆にリアクションの対象となったのだ。自らが主役として作り出したK-POPが、外国で再解釈されて、今度は彼自身に感動を与えたということだ。韓国内の歌手たちが『Golden』の曲やSaja Boysのカバーダンスを相次いで披露している姿も同様だ。仮想のK-POPが、本物のK-POPエコシステムに逆に染み込んでいく現象だ。Kカルチャーを「輸出される商品」として、あるいは韓国から他の先進国へ「進出」していく対象としてのみ見るべきでないのは、こうした理由からだ。文化とは境界を越えて循環し、お互いを豊かにしていくものだからだ。

今やK-POPは「韓国」という地理的意味を越えて、世界のどこででも作り出すことができる文化的文法となった。韓国人が一人もいないK-POPグループが誕生し、ロゼとブルーノ・マーズのデュエット曲のように、国籍を区別するのが難しい曲も生まれている。いつの日か『Golden』を歌う少女たちも、その曲のルーツが韓国にあるということを意識しないかもしれない。私たちがジャズを聴くとき、それが米国南部から始まったという歴史を毎回思い出すわけではないのと同じように。重要なのは、世界の人々の感情を深く、豊かにつなげる文化的流れを作り出すことだといえる。

であるならば、その“オリジナル”を生み出した私たちがやるべきことは、そのルーツをさらに深く、そしてしっかりと育てていくことだ。文化の真心は、最終的には国境を越えて、誰かの心を動かし、その心がまた新たな物語を生み出す。私たちは今、そのグローバルな循環の中心に立っているのだ。

イ・ユンジョン/文化コラムニスト



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