1967年、九老輸出工業団地竣工式の様子。経済開発計画により全国に工業団地が作られた。現在九老工業団地はベンチャー・デジタル団地に変わった。[写真 国家記録院]
韓国戦争(朝鮮戦争)最後の年である1953年から昨年までの約70年間に韓国経済は年平均6.9%ずつ成長した。特に60年代初めから97年までの30年ほどの間は平均成長率が9.4%だった。30年余り毎年10%近い成長はどうして可能だったのだろうか。
当時は経済開発5カ年計画があった。時にははずれたりもしたが、この計画が韓国の成長神話を作った「国家主導経済開発」の核心だったことは否定しがたい。
◇先進国になった韓国、新しい成長法探す時
1961年5月の軍事政変で政権を取った朴正熙(パク・チョンヒ)は経済発展を通じて国民を貧困から抜け出せるようにすると約束した。それにより経済企画院を設立し、同年9月に経済企画院は第1次経済開発5カ年計画を出した。
数百ページに達する1次計画は基本的に自立経済を達成するための細部目標と案だった。当時の韓国経済は農業が中心だった。製造業の未発達は低い所得水準と深刻な貿易赤字の原因になった。政府は同時代の多くの開発途上国のように、国民が使う工業製品を独自に生産する能力を備えることによって産業化を通じた経済発展と貿易赤字を同時に解決しようと考えた。「計画」はこれを達成するための戦略だった。
ところが政府はいくらもたたずに計画を大きく修正する。期待しなかった方向で貿易赤字を解決し経済発展を図れる道を発見したためだ。織物や合板のようないくつかの製造業領域で突然に生産と輸出が増えた結果、62年に5500万ドルだった輸出がわずか2年後には1億2000万ドルと2倍以上になった。経済官僚らはこれを見て新しい経済発展戦略が可能だということを悟る。われわれが消費する製品を国内生産する従来の方式ではなく、海外に販売する製品の生産を増やす方向でだ。工業化の焦点を輸出品生産に置き、輸出して稼いだお金で必要な製品を輸入することだ。いわゆる「輸入代替を通じた自立経済」から「輸出主導産業化」への戦略旋回だ。
64年末に経済企画院はこうした内容を盛り込んだ第1次計画の修正案を発表する。これはその後の韓国の経済開発の基本方向となった。韓国経済の高度成長を可能にした輸出主導経済開発戦略は朴正熙政権が唱えて民間を導いていっただけに、民間領域が成し遂げた成果と潜在力を政府が把握して受け入れた結果だった。
1次計画初年度である62年には名目で90ドルだった1人当たり国内総生産(GDP)は66年に129ドルと43%増えた。成果に鼓舞された経済企画院は91年まで5回にわたり経済開発計画を実施する。輸出は64年に1億ドルだったが91年には674億ドルに至った。輸出の爆発的増大に力づけられ80年代中盤には1人当たりGDPが世界平均を超え91年には7870ドルになった。
韓国だけでなく多くの開発途上国が経済開発計画を立てたが、成功した事例は珍しい。北朝鮮も61年から経済開発7カ年計画を推進したがうやむやに終わった。事実「輸出主導」は韓国が成功した要因のひとつだった。工業化を指向する開発計画を立てた多くの開発途上国は目標生産量を達成したかを問い詰めた。
この過程で多くの統計歪曲が起きた。指標上では成功したが実際は生産されていないことが多かった。これに対し輸出統計は輸入国との関係の中で作られる情報のためねつ造はほとんど不可能だった。
産業を自給型から輸出型に変えたように、融通性を持たせて戦略を修正したのも成功の要因といえる。73年に発表された重化学工業化政策もまた計画にないものだった。輸出指向への転換ほどに韓国経済の発展方向を根本的に変化させる途轍もない企画だったが、73年に電撃的に発表しただけで経済開発計画を通じて公表したものではなかった。
別の見方をすれば、経済開発計画は粗雑でもあった。「計画をしっかり立てて執行すること」が「計画に基づいて経済成長を進める」という意味ならば、経済開発計画は高い評価を受け難いだろう。経済成長率のような目標値がいつも想定をはるかに超過達成したためだ。
経済の大きな幹や構造的変化を提示する側面でも不十分だった。先に述べたように「輸出主導経済成長」という政策方向は政府が先導的に出したというよりは一種の試行錯誤を通じて得た結果に近かった。成長速度を適切に調節することもできなかった。景気過熱で多くの不良企業が生じたため、政府は72年にすべての社債を凍結する超憲法的措置(8・3措置)を取らなければならなかった。
第6次計画が終わった91年以降、韓国政府は経済開発計画を推進しなかった。94年には財務部と統合して財政経済院を作る形で経済企画院をなくした。経済が一定水準に到達した状況では国が計画を通じて経済を導いていく方式は効果的でも望ましくもないという判断だった。
そして30年が流れたいまでも政府の経済運営は開発年代方式という指摘が絶えない。大きな権力を振り回した過去を忘れられない経済官僚が新たな方式で経済を運用しないためかもしれない。だが経済が厳しい時ごとにあちこちで「政府が措置を取らなくてはならない」と責めることが繰り返されることこそ、政府が開発年代式の政策を捨てられない本当の理由かもわからない。
◇キム・ドゥオル教授=韓国経済史学会長。経済史と制度経済学分野を研究した。読書文化を広めるために季刊書評専門誌『ソウルレビューオブブックス』編集委員長も務めている。著書に『韓国経済史の再解釈』『経済成長と司法政策』『生きながら一度は経済学勉強』などがある。
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