日本を代表する写真家、桑原史成さんがレンズを通して見た韓国の1965年4月19日の風景だ。当時、学生たちを中心に韓国と日本の修交のために行われた韓日会談反対デモがソウルの都心で激しく行われていた。この日学生たちは4.19(四月革命)から5周年を迎えて沈黙デモに出た。桑原さんは当時学生たちの反対が「植民地時代の反感から出たもの」と話した。[写真 桑原史成]
日本ドキュメンタリー写真家の桑原史成さん(88)は1965年韓日修交直前、韓日会談反対デモの取材を皮切りに過去60年間、韓国を100回以上も訪れ、10余万枚を超える写真を残した。韓国を「第2の故郷」と呼ぶ桑原さんと4日、東京江東区の自宅で会った。
「アリランを聞くと心が踊ります」。レンズ一つで韓国の60年、激動の現代史を記録した桑原さんは真っ先に「アリラン」の話を取り出した。桑原さんは韓国と海を挟んで向こう側の島根県津和野のある山奥の集落で1936年に生まれた。東京農業大学農業工学科で4歳上の韓国人留学生パクさんと出会ったことが縁の始まりだった。大学1年の夏休み、パクさんとともに故郷の村に行った。ある日の夜、この友人が「秘密」を打ち明けた。1952年韓国戦争(朝鮮戦争)の中で、莞島(ワンド)から船に乗って密航して入ってきたということだった。夏休みが終わって帰ってきて、桑原さんは友人からアリランを学んだ。いつか韓国に一度行ってみなくてはならないと考えた。韓国との縁はこのようにして始まった。
桑原さんは夜学で東京総合写真専門学校に通って報道写真家を夢見た。デビュー作は水銀中毒による公害病「水俣病」で、1963年日本写真批評家協会新人賞を受賞した。翌年韓国へ取材に行こうとしたが、修交していないためビザを取るのが大変だった。その時、在日韓国代表部(現在日韓国大使館)を通じて力を貸してくれたのが友人のパクさんだった。やっとの思いでビザを取り、同年8月3日、金浦(キンポ)空港に降り立った。27歳の桑原さんが遭遇したのはホコリだらけの未舗装道路だった。
「その時もまだ空港税関で人々が日本語で対応をしていた。『Do you speak English』ではなかった。植民地時代の名残だった」
桑原さんが再び韓国を訪れたのは1965年の春のことだ。1961年5・16軍事政変(5・16軍事クーデター)で執権した朴正熙(パク・チョンヒ)政権は修交のために韓日会談を重ねていた。軍事政権が推進する修交議論に、当時学生たちを中心に大規模な反対デモが相次いだ。催涙弾が飛び交い、鎮圧隊が学校に進入して軍用トラックで学生たちを連行して回ったが、デモは止まらなかった。撮影を助けてくれた知人が桑原さんに「日本語は使うな」と言って韓国の名前をつけるほど雰囲気は険悪だった。
しとしとと雨が降っていた同年4月19日。桑原さんのレンズは学生デモ隊に向けられていた。
「先のデモでは石が飛び交い、激烈な市街戦が繰り広げられたこととは異なり、すべての学生が『無言デモ』に出た。高麗(コリョ)大学から始まった行進はソウル市内に広がった」
雨の中で涙を飲んで前進するデモ隊と正面から向き合い、そのレンズで捕らえたのが彼の代表作の一つである「韓日会談沈黙デモ」だ。
「学生たちの条約反対は植民地時代35年に対する反感からのものだ。学生たちが屈辱という単語を使ったのもそのような脈絡だと考える」
同年6月22日、韓日基本条約調印式が終わり、韓国軍をベトナムに派兵するという便りが聞こえてきた。出発を控えて汝矣島(ヨイド)で猛虎部隊派越パレードが開かれたが、軍楽隊がアリランを速いテンポで演奏した。桑原さんは「パレードが終わって面会が行われたが、親子間の離別式だった。今でも行進曲のようなそのアリランを忘れることはできない」とした。
その後続いた韓国の時間は桑原さんからカメラから引き離せないようにした。光州(クァンジュ)抗争など民主化の波が襲ったためだ。桑原さんは「政治問題はどこの国にもあるが、民主化は重要ではないか。韓国は民主化と経済成長をすべて成し遂げた。驚いた」と回想した。
<韓日修交60年>韓日会談・ベトナム派兵…「激動の韓国」10万カット残した日本の写真家(2)
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