#1.1989年1月、旧ソ連のエドアルド・シェワルナゼ外相が平壌(ピョンヤン)を訪問し、金日成(キム・イルソン)主席(1994年死去)に会った。韓ソ修交を1年8カ月後に控えた時点だった。金主席はシェワルナゼ外相に「ソ連が南朝鮮と外交関係を正常化する場合、在モスクワ大使館以外の公式使節団を全員撤収する」と伝えた。シェワルナゼ外相は翌年8月、韓国との修交18日前にまた平壌を訪問して了解を求めようとしたが、金日成主席は会うこともしなかった。
#2.1992年4月15日、金日成主席の80回目の誕生日を祝うため平壌を訪れた中国の楊尚昆国家主席は金日成主席に「韓国と(外交)正常化をする時が近づいた」と述べた。慌てた金日成主席は「(韓国との)修交を2、3年だけ遅らせてほしい」と要求した。北朝鮮が米国との関係改善を推進しているので歩調を合わせてほしいという趣旨だった。しかし3カ月後、中国の銭其琛外相が北朝鮮の妙香山(ミョヒャンサン)にいた金日成主席を訪れて「来月(8月)韓国と修交する」という事実を通知した。これに対し金日成主席は「我々は自主路線を歩む。中国がすることは中国が、我々がすることは我々が」とし、中国に不満を隠さなかった。
◆韓国、国連全加盟国との修交目前
韓国が北朝鮮の最友邦国の旧ソ連・中国とそれぞれ修交し、南北の外交戦で軸は韓国側に完全に傾いた。それから30年余りが過ぎた現在、韓国は北朝鮮のもう一つの血盟と見なされたシリアと最後の修交交渉を進行中だ。韓国外交部は先月7日、金垠廷(キム・ウンジョン)アフリカ中東局長をシリアに派遣し、修交に原則的に合意したという。昨年、北朝鮮と単独で外交関係を結んでいたキューバに続いてシリアとも外交関係を正常化すれば、韓国は191カ国の国連加盟国とすべて修交する。大韓民国政府を樹立してから77年、南北の「修交戦争」が韓国の完勝で終わるということだ。
政府樹立直後、韓国は中華民国(現台湾)・米国・フランス・フィリピンの5カ国と相次いで修交した。北朝鮮はこの時期、社会主義12カ国と外交関係を結び、数字上で韓国を上回っていた。1960年には南北の外交関係樹立国がそれぞれ16カ国で並び、翌年から韓国が上回った。南北修交戦争のピークは旧ソ連がグラスノスチとペレストロイカと呼ばれた開放・改革政策、そこに盧泰愚(ノ・テウ)政権の北方政策が重なった1980年代だ。それまで陣営外交に集中してきた韓国は社会主義圏の国にも関係を拡大し、1980年に114カ国だった修交国を1990年に144カ国に増やした。その後、南北の差はさらに広がった。
韓国に逆転された北朝鮮は非同盟外交に集中し、1970年の34カ国から1980年には99カ国に修交国を拡大した。その後も北朝鮮は奮発したが、社会主義圏の体制転換と国際社会の親しい雰囲気が広がり、1980年代の10年間の修交国数は韓国が30カ国、北朝鮮が5カ国となった。北朝鮮は核を開発して孤立の道を自ら招いたりもした。2000年代に入って北朝鮮が英国やオーストラリアなど西側10カ国ほどと関係を正常化したが、すでに南北の競争は終わった後だった。
外交は銃声ない戦争といわれる。銃を握らないが、自国の利益のために手段と方法を問わない。昨日の敵が今日の同志となり、今日の同志が明日の敵になったりもする。過去の義理を基盤に関係を維持するケースもあるが、国益を優先する冷酷な国際社会の現実は経済発展と民主化が進んだ韓国に軍配を上げた。
【コラム】韓国の完勝で終わった77年間の南北修交戦争(2)
#2.1992年4月15日、金日成主席の80回目の誕生日を祝うため平壌を訪れた中国の楊尚昆国家主席は金日成主席に「韓国と(外交)正常化をする時が近づいた」と述べた。慌てた金日成主席は「(韓国との)修交を2、3年だけ遅らせてほしい」と要求した。北朝鮮が米国との関係改善を推進しているので歩調を合わせてほしいという趣旨だった。しかし3カ月後、中国の銭其琛外相が北朝鮮の妙香山(ミョヒャンサン)にいた金日成主席を訪れて「来月(8月)韓国と修交する」という事実を通知した。これに対し金日成主席は「我々は自主路線を歩む。中国がすることは中国が、我々がすることは我々が」とし、中国に不満を隠さなかった。
◆韓国、国連全加盟国との修交目前
韓国が北朝鮮の最友邦国の旧ソ連・中国とそれぞれ修交し、南北の外交戦で軸は韓国側に完全に傾いた。それから30年余りが過ぎた現在、韓国は北朝鮮のもう一つの血盟と見なされたシリアと最後の修交交渉を進行中だ。韓国外交部は先月7日、金垠廷(キム・ウンジョン)アフリカ中東局長をシリアに派遣し、修交に原則的に合意したという。昨年、北朝鮮と単独で外交関係を結んでいたキューバに続いてシリアとも外交関係を正常化すれば、韓国は191カ国の国連加盟国とすべて修交する。大韓民国政府を樹立してから77年、南北の「修交戦争」が韓国の完勝で終わるということだ。
政府樹立直後、韓国は中華民国(現台湾)・米国・フランス・フィリピンの5カ国と相次いで修交した。北朝鮮はこの時期、社会主義12カ国と外交関係を結び、数字上で韓国を上回っていた。1960年には南北の外交関係樹立国がそれぞれ16カ国で並び、翌年から韓国が上回った。南北修交戦争のピークは旧ソ連がグラスノスチとペレストロイカと呼ばれた開放・改革政策、そこに盧泰愚(ノ・テウ)政権の北方政策が重なった1980年代だ。それまで陣営外交に集中してきた韓国は社会主義圏の国にも関係を拡大し、1980年に114カ国だった修交国を1990年に144カ国に増やした。その後、南北の差はさらに広がった。
韓国に逆転された北朝鮮は非同盟外交に集中し、1970年の34カ国から1980年には99カ国に修交国を拡大した。その後も北朝鮮は奮発したが、社会主義圏の体制転換と国際社会の親しい雰囲気が広がり、1980年代の10年間の修交国数は韓国が30カ国、北朝鮮が5カ国となった。北朝鮮は核を開発して孤立の道を自ら招いたりもした。2000年代に入って北朝鮮が英国やオーストラリアなど西側10カ国ほどと関係を正常化したが、すでに南北の競争は終わった後だった。
外交は銃声ない戦争といわれる。銃を握らないが、自国の利益のために手段と方法を問わない。昨日の敵が今日の同志となり、今日の同志が明日の敵になったりもする。過去の義理を基盤に関係を維持するケースもあるが、国益を優先する冷酷な国際社会の現実は経済発展と民主化が進んだ韓国に軍配を上げた。
【コラム】韓国の完勝で終わった77年間の南北修交戦争(2)
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