今年は光復(クァンボク、独立)80年になる喜ばしい年だ。韓国は光復後、産業化と民主化を成し遂げた数少ない国として自負してきた。経済的に世界10位圏の大国になり、政治的には大統領直選制を施行して久しい。しかし、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の非常戒厳と弾劾事態を見て、80年という歳月がこの地に民主主義が定着するのに十分な時間ではなかったことが分かった。直接選挙制で国民が主人になる民主主義の姿は取ったものの、内戦に匹敵する昨今の陣営争いは、民主主義に至る道が決して順調ではないことを示している。
省察が必要な部分の一つが表現の自由だ。民主主義を創案したアテネの人々は、表現の自由を民主主義の核心価値だと考えた。彼らは表現の自由にパレーシア(parrhesia)とイセゴリア(isegoria)の二つの原理が含まれると見た。パレーシアは好きなように恐れることなく話す自由がある。真実だと思うことを率直に表現する自由だ。真だと信じるなら、勇気をもって批判する権利だ。これに対し、イセゴリアは市民の誰もが平等に話す権利を持つという意味だ。自分と考えが違えば討論した。政策を決める民会ではみんなに発言の機会が与えられた。民会は明け方から夜まで続いた。アテネの共同体は公論化に努めた。
アテネの民主主義はパレーシアとイセゴリアのバランスを通じて発展した。それぞれ言いたいことは言った。しかし、相手を排除しなかった。相手を認めずには公論を立てるのは難しいということが分かった。階層と能力が違っても意思疎通と説得により公論を模索した。アテネが表現の自由に相反する二つの原理を含めた理由は、個人の自由と共同体の自由がバランスよく共存してこそ民主主義が可能だという点を直視したためだ。哲学者アリストテレスは『政治学』で個人は望む通りに生き、共同体は交互に支配することを民主主義の核心原理と見た。干渉されずに話す自由を持ち、同時に市民間の討論により共感を広げていくことが民主主義の要諦であることを指摘したのだ。しかし、民主政後半、アテネが民衆(demos)の欲望を狙った対外政策を選んだことで、二つの原理の間に亀裂が生じた。民衆の権限強化は階層間の対立を激化させた。パレーシアとイセゴリアに内在する価値を調整することに失敗したアテネの国力は弱まった。スパルタに敗れた後、アテネは消滅の道に入った。
アテネは滅びたが、パレーシアとイセゴリアの原理は、今日の自由民主主義国家の核心原理として機能している。言論の自由を明らかにした米国憲法修正第1条や韓国の憲法第21条第1項、良心の自由、幸福追求権、言論の真実追求義務、「明白で現存する危険(clear and present danger)」原則などはパレーシアの原理を継承したものだ。法の前の平等、牽制と均衡、公論場理論、英国公営放送BBCの「適切な不便不当性(due impartiality)」の報道原理、言論の「牽制的民主主義(contestatory democracy)」の役割などはイセゴリアの原理から始まった。
我々の政界と公論の場はばらばらになった。各陣営はパレーシアで武装している。陣営を行き来するイセゴリアは見当たらない。政治指導者たちは死生決断式の権力闘争に酔っている。相手の言うことは聞かない。政治はいつからか対立して反対することがすべてになった。韓国の意思疎通空間にも包容と寛容は見当たらない。コメントにはヘイトや攻撃的表現が溢れている。公共放送の構成員の多くは、パレーシアを表現の自由と考えているようだ。しかし、公営放送にはイセゴリアを高める義務がある。政治ユーチューブプラットフォームの偏向性は退行的だ。相手をからかって悪魔化する。AIアルゴリズムに基づいた動画プラットフォームと検索エンジン・ネイバーは、同じ世界を繰り返し作り出す。人々があまり感じないだけで、アルゴリズムの世の中にはイセゴリアがない。人工知能は社会的真実を省察するには役に立たない。
自由民主主義は互いに違いを認めることだ。耳をふさいで陣営の中でお互いに聞こえのいいことばかり言えば、パレーシアは満たされるかもしれないが、イセゴリアは消える。今日、韓国社会で政治が不信を受け、公論の場が崩壊した原因は、二つの原理の間でバランスが崩れたためだ。過去の権威主義体制では、話すこと自体が難しかった。しかし、今はその時代を越えた。人は誰でもパレーシアを通じて自分の考えを真実だと考える。しかし、それも結局は一つの意見に過ぎない。イセゴリアは結局、他人のパレーシアも大事だという立場だ。パレーシアとイセゴリアのバランスが崩れた場合、韓国の民主主義はアテネの興亡からも分かるように、危機に直面する恐れがあることを自覚しなければならない。船が沈めば誰も自由になれない。言いたいことばかり言っては民主主義は難しい。このままでは民主主義を維持することできない。
孫栄晙(ソン・ヨンジュン)/国民大学メディア広告学部教授
省察が必要な部分の一つが表現の自由だ。民主主義を創案したアテネの人々は、表現の自由を民主主義の核心価値だと考えた。彼らは表現の自由にパレーシア(parrhesia)とイセゴリア(isegoria)の二つの原理が含まれると見た。パレーシアは好きなように恐れることなく話す自由がある。真実だと思うことを率直に表現する自由だ。真だと信じるなら、勇気をもって批判する権利だ。これに対し、イセゴリアは市民の誰もが平等に話す権利を持つという意味だ。自分と考えが違えば討論した。政策を決める民会ではみんなに発言の機会が与えられた。民会は明け方から夜まで続いた。アテネの共同体は公論化に努めた。
アテネの民主主義はパレーシアとイセゴリアのバランスを通じて発展した。それぞれ言いたいことは言った。しかし、相手を排除しなかった。相手を認めずには公論を立てるのは難しいということが分かった。階層と能力が違っても意思疎通と説得により公論を模索した。アテネが表現の自由に相反する二つの原理を含めた理由は、個人の自由と共同体の自由がバランスよく共存してこそ民主主義が可能だという点を直視したためだ。哲学者アリストテレスは『政治学』で個人は望む通りに生き、共同体は交互に支配することを民主主義の核心原理と見た。干渉されずに話す自由を持ち、同時に市民間の討論により共感を広げていくことが民主主義の要諦であることを指摘したのだ。しかし、民主政後半、アテネが民衆(demos)の欲望を狙った対外政策を選んだことで、二つの原理の間に亀裂が生じた。民衆の権限強化は階層間の対立を激化させた。パレーシアとイセゴリアに内在する価値を調整することに失敗したアテネの国力は弱まった。スパルタに敗れた後、アテネは消滅の道に入った。
アテネは滅びたが、パレーシアとイセゴリアの原理は、今日の自由民主主義国家の核心原理として機能している。言論の自由を明らかにした米国憲法修正第1条や韓国の憲法第21条第1項、良心の自由、幸福追求権、言論の真実追求義務、「明白で現存する危険(clear and present danger)」原則などはパレーシアの原理を継承したものだ。法の前の平等、牽制と均衡、公論場理論、英国公営放送BBCの「適切な不便不当性(due impartiality)」の報道原理、言論の「牽制的民主主義(contestatory democracy)」の役割などはイセゴリアの原理から始まった。
我々の政界と公論の場はばらばらになった。各陣営はパレーシアで武装している。陣営を行き来するイセゴリアは見当たらない。政治指導者たちは死生決断式の権力闘争に酔っている。相手の言うことは聞かない。政治はいつからか対立して反対することがすべてになった。韓国の意思疎通空間にも包容と寛容は見当たらない。コメントにはヘイトや攻撃的表現が溢れている。公共放送の構成員の多くは、パレーシアを表現の自由と考えているようだ。しかし、公営放送にはイセゴリアを高める義務がある。政治ユーチューブプラットフォームの偏向性は退行的だ。相手をからかって悪魔化する。AIアルゴリズムに基づいた動画プラットフォームと検索エンジン・ネイバーは、同じ世界を繰り返し作り出す。人々があまり感じないだけで、アルゴリズムの世の中にはイセゴリアがない。人工知能は社会的真実を省察するには役に立たない。
自由民主主義は互いに違いを認めることだ。耳をふさいで陣営の中でお互いに聞こえのいいことばかり言えば、パレーシアは満たされるかもしれないが、イセゴリアは消える。今日、韓国社会で政治が不信を受け、公論の場が崩壊した原因は、二つの原理の間でバランスが崩れたためだ。過去の権威主義体制では、話すこと自体が難しかった。しかし、今はその時代を越えた。人は誰でもパレーシアを通じて自分の考えを真実だと考える。しかし、それも結局は一つの意見に過ぎない。イセゴリアは結局、他人のパレーシアも大事だという立場だ。パレーシアとイセゴリアのバランスが崩れた場合、韓国の民主主義はアテネの興亡からも分かるように、危機に直面する恐れがあることを自覚しなければならない。船が沈めば誰も自由になれない。言いたいことばかり言っては民主主義は難しい。このままでは民主主義を維持することできない。
孫栄晙(ソン・ヨンジュン)/国民大学メディア広告学部教授
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