北朝鮮で最高指導者の動線は北朝鮮を読む窓になる。最高指導者が事案を自ら管理し、彼の関心の中ですべての政策が進められる権威的な一人支配体制のためだ。金正恩(キム・ジョンウン)国務委員長も至急なところ、意味を付与しようとする対象を訪れ、現地指導したところに集中的に資源を支援して成果を出そうとし、これを手本とする。
中央日報統一文化研究所が集計した結果、今年上半期に金委員長は58回の公開活動をした。過去5年間で最も多い。金委員長は2012年に執権してから5年間、上半期だけで68回(2016年)-99回(2013年)北朝鮮メディアに登場した。執権直後は現場に行って指導者としての授業を受け、現実を把握し、住民に存在感を誇示するレベルだった。
しかし「安定期」に入ると彼の公開活動は2020年に18回(上半期)まで減った。ところが今年また動きが活発になったのは管理するべきことがまた増えたか、外部にメッセージを伝えようとするためとみられる。
目を引くのは公開活動のうち軍事分野が占める比率が大きく増えた点だ。金委員長は2019年2月にベトナム・ハノイで開催された第2回朝米首脳会談が決裂した後、米国との関係を長期戦と規定し、相次いでミサイルを発射して軍事力増強に拍車を加えた。2020年は公開活動の44.4%(18回のうち8回)が軍事分野だった。昨年は57.8%(33回のうち19回)、今年は50%(58回のうち29回)だった。これは2022年から北朝鮮が韓米軍事連合にミサイルで対抗する戦略に入った結果だ。新型ミサイル開発および発射現場を繰り返し訪問した。
◆北朝鮮、軍事に続いて外交でも対抗
金委員長はロシアと密着しながら外交分野で韓米同盟に対抗する姿を見せている。昨年、韓米、韓米日が首脳会談を開き、北朝鮮の核に共同で対応する動きを見せると、金委員長は昨年9月、ロシアのボストーチヌイ宇宙基地を訪問し、プーチン大統領に手を差し出した。先月19日にはプーチン大統領を平壌(ピョンヤン)に招待し、事実上の「有事自動介入」内容を盛り込んだ「包括的戦略パートナーシップ条約」を締結した。プーチン大統領は対北朝鮮制裁を履行するどころか、自身が利用する車種のアウルス乗用車を4カ月ぶりにまた贈った。今月の国連安保理議長、ロシアのワシリー・ネベンジャ国連大使は1日(現地時間)の就任記者会見で「一国に終わりのない制裁を加えるのは不公正だ」とし「我々は北朝鮮に対する制裁体制が永遠に継続することはあり得ないという事実を考えなければいけない」と述べた。対北朝鮮制裁の亀裂どころか崩壊を狙って露骨に北朝鮮をかばった。
半面、中国との関係は疎遠で、朝中ロ協力は制限的だ。中国が国際舞台でならず者国家として扱われる北朝鮮やロシアと一定の距離を置こうとする意図が作用している可能性があるが、北朝鮮側の選択である可能性が高い。2019年のハノイ会談決裂の責任を韓国と中国に転嫁する次元でだ。金委員長は朝米首脳会談の前後の11カ月間に中国を4回訪問したが、会談決裂後に交流が中断したことがこれを表している。
中国との関係を血盟または脣歯の間柄と考えてきた北朝鮮だ。金委員長と習主席が会うたびに北朝鮮は朝中関係の新たな1ページ(2018.3)→兄弟的友情と団結(2018.5)→新しい時代の要求に合う親善強化(2018.6)→熱い友誼、厚い同志的信頼(2019.1)→社会主義一筋で永遠の親善(2019.6)と評価した。北朝鮮は中国と「永遠」を約束した。しかし2019年6月、習主席の訪朝10日後の朝米板門店(パンムンジョム)会談で進展がないと、金委員長は一度も会ったことがなかったプーチン大統領と3回会うなど船を乗り換えた。北朝鮮は朝中関係樹立75周年の今年、国営朝鮮中央通信のホームページに「朝中親善の年2024」という別途のコーナーを開設したが、関連内容は3件がすべてだ。半面、朝ロは首脳会談を除いても今年20回以上も幅広い交流を公開的に進行している。義理を重視したり朝中関係を「永遠」と表現したりしたが、こうした言葉が色あせてしまうほどだ。
◆1960年代にも中ソ綱渡り
こうした姿は1960年代の中ソ紛争当時に綱渡り外交をした北朝鮮を連想させる。北朝鮮はフルシチョフ旧ソ連共産党書記長がスターリンを格下げした後、ソ連を「修正主義」と批判しながら毛沢東の中国に近づいた。しかし1960年代後半に文化大革命を展開した中国が北朝鮮指導部を「機会主義」と指摘すると、北朝鮮も中国を「教条主義」と批判しながら旧ソ連にまた方向を変え、軍事援助と経済支援を受けた。ピンポン外交で米中が関係を改善し、デタントの時代に入ると、北朝鮮はまた中国に近づいて中ソの均衡維持に動いた。その「均衡」も長くは続かなかった。ゴルバチョフ書記長がペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(開放)を追求すると、北朝鮮はこれを「社会主義背信行為」と非難してソ連と疎遠になり、1996年には35年間続いていた軍事同盟を終えた。
金委員長の父・金正日(キム・ジョンイル)総書記は執権期間に海外を10回訪問した。中国が7回、ロシアが3回だ。中国に寄りながらも金総書記は2006年7月に平壌(ピョンヤン)で開いた公館長会議で、当時のチェ・ジンス駐中大使を称えた後「中国を信じてはいけない」と強調した。同年1月、金正日総書記が中国を訪問して友情を深めた直後だったため、北朝鮮の外交の「内心」は別にあったということだ。
金委員長は4日間の党全員会議を終えた翌日の今月2日、軍需工場に向かった。北朝鮮は経済・外交的にロシア戦争の特需を狙っている。中国と米国に手を差し出したが、制裁解除の兆しどころか、むしろ徹底的にふさがれていたため、ロシアに向かうのは北朝鮮としてはやむを得ない「切迫」した選択なのかもしれない。プーチン大統領は金委員長に乗用車を贈り、戦略的パートナー関係を結んだ。しかし徹底的に実利を追う北朝鮮の前例を見ると、やはり永遠という保証はない。11月の米大統領選挙の結果がまた北朝鮮の外交方向を揺さぶるのではないだろうか。
チョン・ヨンス/統一文化研究所長/論説委員
中央日報統一文化研究所が集計した結果、今年上半期に金委員長は58回の公開活動をした。過去5年間で最も多い。金委員長は2012年に執権してから5年間、上半期だけで68回(2016年)-99回(2013年)北朝鮮メディアに登場した。執権直後は現場に行って指導者としての授業を受け、現実を把握し、住民に存在感を誇示するレベルだった。
しかし「安定期」に入ると彼の公開活動は2020年に18回(上半期)まで減った。ところが今年また動きが活発になったのは管理するべきことがまた増えたか、外部にメッセージを伝えようとするためとみられる。
目を引くのは公開活動のうち軍事分野が占める比率が大きく増えた点だ。金委員長は2019年2月にベトナム・ハノイで開催された第2回朝米首脳会談が決裂した後、米国との関係を長期戦と規定し、相次いでミサイルを発射して軍事力増強に拍車を加えた。2020年は公開活動の44.4%(18回のうち8回)が軍事分野だった。昨年は57.8%(33回のうち19回)、今年は50%(58回のうち29回)だった。これは2022年から北朝鮮が韓米軍事連合にミサイルで対抗する戦略に入った結果だ。新型ミサイル開発および発射現場を繰り返し訪問した。
◆北朝鮮、軍事に続いて外交でも対抗
金委員長はロシアと密着しながら外交分野で韓米同盟に対抗する姿を見せている。昨年、韓米、韓米日が首脳会談を開き、北朝鮮の核に共同で対応する動きを見せると、金委員長は昨年9月、ロシアのボストーチヌイ宇宙基地を訪問し、プーチン大統領に手を差し出した。先月19日にはプーチン大統領を平壌(ピョンヤン)に招待し、事実上の「有事自動介入」内容を盛り込んだ「包括的戦略パートナーシップ条約」を締結した。プーチン大統領は対北朝鮮制裁を履行するどころか、自身が利用する車種のアウルス乗用車を4カ月ぶりにまた贈った。今月の国連安保理議長、ロシアのワシリー・ネベンジャ国連大使は1日(現地時間)の就任記者会見で「一国に終わりのない制裁を加えるのは不公正だ」とし「我々は北朝鮮に対する制裁体制が永遠に継続することはあり得ないという事実を考えなければいけない」と述べた。対北朝鮮制裁の亀裂どころか崩壊を狙って露骨に北朝鮮をかばった。
半面、中国との関係は疎遠で、朝中ロ協力は制限的だ。中国が国際舞台でならず者国家として扱われる北朝鮮やロシアと一定の距離を置こうとする意図が作用している可能性があるが、北朝鮮側の選択である可能性が高い。2019年のハノイ会談決裂の責任を韓国と中国に転嫁する次元でだ。金委員長は朝米首脳会談の前後の11カ月間に中国を4回訪問したが、会談決裂後に交流が中断したことがこれを表している。
中国との関係を血盟または脣歯の間柄と考えてきた北朝鮮だ。金委員長と習主席が会うたびに北朝鮮は朝中関係の新たな1ページ(2018.3)→兄弟的友情と団結(2018.5)→新しい時代の要求に合う親善強化(2018.6)→熱い友誼、厚い同志的信頼(2019.1)→社会主義一筋で永遠の親善(2019.6)と評価した。北朝鮮は中国と「永遠」を約束した。しかし2019年6月、習主席の訪朝10日後の朝米板門店(パンムンジョム)会談で進展がないと、金委員長は一度も会ったことがなかったプーチン大統領と3回会うなど船を乗り換えた。北朝鮮は朝中関係樹立75周年の今年、国営朝鮮中央通信のホームページに「朝中親善の年2024」という別途のコーナーを開設したが、関連内容は3件がすべてだ。半面、朝ロは首脳会談を除いても今年20回以上も幅広い交流を公開的に進行している。義理を重視したり朝中関係を「永遠」と表現したりしたが、こうした言葉が色あせてしまうほどだ。
◆1960年代にも中ソ綱渡り
こうした姿は1960年代の中ソ紛争当時に綱渡り外交をした北朝鮮を連想させる。北朝鮮はフルシチョフ旧ソ連共産党書記長がスターリンを格下げした後、ソ連を「修正主義」と批判しながら毛沢東の中国に近づいた。しかし1960年代後半に文化大革命を展開した中国が北朝鮮指導部を「機会主義」と指摘すると、北朝鮮も中国を「教条主義」と批判しながら旧ソ連にまた方向を変え、軍事援助と経済支援を受けた。ピンポン外交で米中が関係を改善し、デタントの時代に入ると、北朝鮮はまた中国に近づいて中ソの均衡維持に動いた。その「均衡」も長くは続かなかった。ゴルバチョフ書記長がペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(開放)を追求すると、北朝鮮はこれを「社会主義背信行為」と非難してソ連と疎遠になり、1996年には35年間続いていた軍事同盟を終えた。
金委員長の父・金正日(キム・ジョンイル)総書記は執権期間に海外を10回訪問した。中国が7回、ロシアが3回だ。中国に寄りながらも金総書記は2006年7月に平壌(ピョンヤン)で開いた公館長会議で、当時のチェ・ジンス駐中大使を称えた後「中国を信じてはいけない」と強調した。同年1月、金正日総書記が中国を訪問して友情を深めた直後だったため、北朝鮮の外交の「内心」は別にあったということだ。
金委員長は4日間の党全員会議を終えた翌日の今月2日、軍需工場に向かった。北朝鮮は経済・外交的にロシア戦争の特需を狙っている。中国と米国に手を差し出したが、制裁解除の兆しどころか、むしろ徹底的にふさがれていたため、ロシアに向かうのは北朝鮮としてはやむを得ない「切迫」した選択なのかもしれない。プーチン大統領は金委員長に乗用車を贈り、戦略的パートナー関係を結んだ。しかし徹底的に実利を追う北朝鮮の前例を見ると、やはり永遠という保証はない。11月の米大統領選挙の結果がまた北朝鮮の外交方向を揺さぶるのではないだろうか。
チョン・ヨンス/統一文化研究所長/論説委員
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